いつまでも夏が終わらないと思っていたら、突然木枯らしの季節がやってきてしまった。この間書いた「外猫」さんはすっかり我が家の庭に棲みついてしまい、この寒さの中でほとんどダンボールの中に籠っている。日中、陽が当たる時は箱から出て来て日向ぼっこをするが、これまでのように塀の隅ではなく、庭の石の上で毛づくろいをするようになった。クマ(我が家の飼い犬)が時たま思い出したように追い払おうとすると、その時だけ葉蘭の陰に隠れている。2週間ほど前に草抜きをして、庭の中央に積み上げていたが、その干草の山の上で寝るとフワフワとして気持ちがいいらしく、2匹で獲り合いをしたりしている。
2匹の話だけだと片手落ちなので、今日は「内猫」の話をしようと思う。今から7年ほど前の節分の日に、子供の友人(正式にはそのまた友達)が電車で30分位離れた街を歩いている時に、道に棄てられている(人間が捨てたのか、親猫が捨てたのかはわからない)仔猫を見つけた。最初は彼女が育てるつもりだったようで、仕事に出かける時に我が家に預けに来て、また夕方引き取りにくる、ということをしばらくの間、繰り返していた。
その頃は我が家には虎猫が一匹いて、(この子も少し離れたガレージにピンクの籠に入れて捨てられていたのだが、ある土砂降りの日にとても歩けないような小ささで、果敢に私について来て離れなかったのだ。)当初は来るたびに怖い顔で「フーッ」をくりかえしていたが、彼女が出張で仔猫が初めて「お泊まり」した日からその小さな仔を受け容れるようになった。
彼女はますます忙しくなり、私の子供も遠くの大学に在学していて不在だったので、結局私がこの仔猫の世話をしなければならなくなった。獣医さんに聞くと、誕生後未だ1週間も経っていないとのことで、2時間毎に哺乳瓶でミルクを与え、下の世話をし、ほとんど人間の嬰児状態であった。そうこうしているうちに、驚いたことに虎猫の方が気風のいいところを見せて、子守りを買って出てくれた。虎猫の名前がミルッヒ(ドイツ語でミルク)、呼び名はミルだったので、仔猫の方はココ(ココアの略)と呼ぶことにした。
ココは驚くほどミルクを飲み、よく眠り、またミルクを飲み、
さらに無防備に眠り続け、順調に育って行った。
身づくろいもするようになり、驚いたことにクマがガラス戸に近づいたりすると、誰も教えないのに精一杯身体を膨らませて、「フーッ」と言っているではないか。まるでギズモのようだった。一人でしっかり歩けるようになってからは、私がどこに行っても後ろをついて歩いて、姿が見えなくなるとずっと悲しげな声で呼び続けた。
ココが来て1年後、私の弟が病に斃れた時も、そばに寝ている「やわらかな生きもの」にどれだけ救われたことか。死は硬直であり、「生きている」ということは柔らかいということなのだと、つくづく思い知ったのだった。