昔、カトリックの学校の寄宿舎で過ごしていた頃があった。石造りの建物はひんやりしていて、真昼間でも薄暗かった。その頃、真夜中になると煉獄の霊魂が現れるという噂が囁かれていた。「この世からもう一度、元の世界に戻る時、耐えられないほど苦しいから、呼び出してはいけないんですって。」という言葉と共に。私はいつも亡くなった人たちと一緒に生きていたので、ことさらに呼び出す必要はないのだと、一人でこっそり思っていた。死者はどこへ行くのか、誰にもわからない。もちろんどんな宗教でも、死後の世界のことを教えているが、死なない限り、本当のことはわからない。それでも一つだけ確信していることがある。それは死者はその人を思っている限り、心のなかで生き続けているということである。だから私たちは死者を忘れてはいけない。十二月になると神戸の街にルミナリエの明かりが点る。今年はもう阪神淡路大震災から十七年の歳月が流れた。けれど私たちは今でもあの時と同じ気持を抱き続けている。昨年の三月十一日以来、この思いはこの国すべての人の思いとなった。
私たちは生きるために生きなければならない。私たちは平静な心を保つ必要がある。正義だけでは砂のように掌からこぼれてゆくものが多くある。人にはその立場によって千差万別の考え方があり、生き方がある。対立している者同士は、ほとんどの場合、相手の立場を理解することが出来ない。かつて私は義母と共に暮らした歳月の方が、実母と共に暮らした日々よりも多かった経験を持っているが、その義母が亡くなってはじめて、一度も理解できなかった彼女の思いがわかるような気がした。生きている間はどうしても向かい合って立っている以外になかったのだが、どうやら私は彼女がこの世にいなくなってはじめて、相手方の立場に立って物事を考えるということが出来たのかもしれない。私たちはこの小さな列島に生きるささやかな存在である。大自然は時には偉大な癒しとなり恵みとなるが、その反面、小さな人間の力ではとても太刀打ちできないような脅威となる。その大自然と対峙する時、私たちが対立したところで何も生まれるものはない。私たちは分断する者となってはならない。過ちを認め、過ちを正し、より善き目的に向かって手を携えていかなければならない。ただ非難したり責めたりするだけの行為であってはならない。これまで何をしたかではなく、これから何をするかを考えるべきなのだ。
死者と共に生きる、それを原点として考えると、今現在だけの座標軸ではなく、もっともっと先の、永遠へと続く道程が見えてくる。死者のみがこの世のすべてを俯瞰することが出来る。私たちはその辛く苦しい道程を耐え続けなければならない。そのことを考えると、今はすべての人の英知を一つに結集するべき時なのだ。私たちは己の為だけに生きているのではない。一人では出来ないことも、他者と共に生きることによって出来ることもあるだろう。どんなに歳を重ねようと、一人の人間の短い一生では、生きることも死ぬことも謎のままである。それでもなお、生きている限り生きなければならない。この短い、けれど輝きに満ちた一生において、死者を心に刻み、彼らと共に生き、彼らの視点で永遠に繋がる長い道程を見ることこそ、私たちの唯一の指標となるだろう。
- 2011.07.07 Thursday
- 02:30
昨夜は家人の付き合いで、あるホテルの福岡・京都・神戸のそれぞれのグランシェフが、協力し、競い合って一つのディナーコースを創り上げるという催しに参加した。「東日本応援チャリティーイベント」と銘打たれているように、素材はすべて東北産のもので、その収益もすべて被災地の応援のために寄付されるという。
テーブルに置かれたメニューには、青森産林檎、東北産真鯛、奥入瀬ポーク、気仙沼産フカヒレ、というようにひとつひとつ説明が書かれている。味付けも仙台味噌などが用いられているという。
グラニテ(食間のシャーベット)も山形産の山葡萄、デザートも宮城県産マスカルポーネとずんだ飴、南部せんべ風焼き菓子と書かれていた。
上の写真はメインの東北産和牛を焼くグランシェフ。
食事の合間に3人のグランシェフのお話があったり、食後に宮城県大槌町から来られた津軽三味線の奏者による被災地報告の後、伝統的な三味線の演奏を1曲、自らの作曲による現代風な演奏を2曲の実演があった。
舞台の上には左右対称にガラスの花瓶が置かれ、大きな緑の枝が沢山無造作に投げ込まれている。よく見ると小ぶりの白い花が咲いている。多分夏椿(沙羅の花)かなと思って聞いてみるとやっぱりそうだった。
とても好きな花なのだが、ここしばらく見たことがなかった。京都の東林院に見に行った時のことを懐かしく思い出した。ここでこの花を見ることができるなんて思いもしなかったが、鎮魂の宴にはふさわしい花である。
昨日は兵庫県現代詩協会の会合があったので、土砂降りの中を元町まで出かけました。会が終わってから、久しぶりにお会いしたNさんと一緒にお茶を飲みながら詩の話をしたのですが、珈琲店から出てくると横の道に、入るときにはなかった花のじゅうたんが出来ていました。
そういえばもうそんな季節なのですね。観光のために何年か前から、ゴールデンウイークの頃に、神戸の街のあちこちに、いろいろなデザインでチューリップの花びらが敷き詰められる「インフィオラータこうべ」。まだ一度も見に行ったことがなかったのですが、今年は思いがけなく見ることができました。
昔、中学・高校の頃に在学していたのがカトリックの学校だったので、毎年5月になると「御聖体行列」が行われ、皆で手分けして花のじゅうたんを作ったことを懐かしく思い出しました。その時はチューリップだけでなく、もっと色々な花を使った記憶があります。神戸のインフィオラータはそれとは違い、全く宗教的な意味合いがないものなのですが・・・・・・。
- 2011.01.05 Wednesday
- 00:16
お正月休みもあと1日になりました。普段はゆっくり手紙を書く暇もないので、お正月の間に、日頃御無沙汰している方々に、出来るだけ手紙を書くことにしています。といってもほとんどは年賀状で一言だけしか書けないのですが・・・・。
私は墨が好きなので、毎年、年賀状で書き初めをするのです。決して達筆ではないのですが、墨を磨って和紙の上に筆を滑らすのはとても心地好いのです。墨は何十年も前から奈良の古梅園の「かな用墨さくら形」を使っています。可愛いので心が弾みます。古梅園の墨は本店だけでなく、春日神社から東大寺へ行く道の途中、手向山八幡宮の手前のお店にも置いているので、墨が少なくなってくると、奈良へ行く時に立ち寄って補充します。
量が多い時や太い筆を使う時以外は、ほとんど嫁ぐ時に持参した硯箱(左の写真)を使っています。黒い漆塗りの上に、金彩の波が描かれ、ところどころに螺鈿で波頭が入っています。真ん中に銀彩が入っているのですが、これが岩なのか島なのか、あるいは川を俯瞰した空に浮かぶ雲なのか、未だにわからないのです。手入れをほとんどしていないので、今では銀ではなく薄墨のようになっています。
最初は何だかもったいないような気がして、手許箪笥の中に仕舞ったままで、しばらく使わずにいたのですが、道具はやはり使ってこそ、と思うようになり、筆を持つ時はすぐ取り出せるところに置くようになりました。この硯箱と、同じ造りの大小の箱は、お揃いで持たせてくれた両親の形見のようなものです。
実家の義母はとても書に凝っていて、百人一首や屏風などに書かれた作品も遺っています。昔の名手のさまざまな手による見事なお手本もあって、いつかゆっくりそのお手本をなぞって、毎日筆を取るような暮らしをするのが私の夢の一つです。
- 2010.12.29 Wednesday
- 02:26
今年もあと3日になりました。今年は思わぬことから毎日仕事に追われることになって、あっという間に終わってしまう感じです。し残したこともいっぱいあるような気がしますが、元気で一年を過ごせたことに感謝することにしましょう。
ブログも思うように更新出来なくて、それでもたくさんの方にご覧頂いたことを嬉しく思っています。
昨日はココ(飼い猫)の今年最後の診察日でした。夏に体調を崩し、秋までの寿命かと覚悟したのですが、完全に治癒したわけではないものの、無事に年を越せることになり、ほっとしています。
クマ(飼い犬)も薬を飲みながら元気に過ごしています。何だか家じゅうが療養生活風になってしまったようです。
急に寒波がやって来て凍えてはいけないので、水連鉢から小さな器に引越して、メダカも玄関に入れました。
冬支度を終了して、今日からはゆっくり休日を楽しめるので、ほんの少し優しい気分になっています。
娘が生まれた年に植えた菊桃(花弁が菊のように細い花が咲く桃)が、昨年枯れてしまったので、その後に小さな石楠花(シャクナゲ)を植えた。「紫玉」という名前が付いている。
紫色はほんの少し寂しいイメージがあるが、朝の庭で見ると、この花の周りだけ光が集まっているように思われる。
写真を取った時はその逆の夕光に照らされているのだが、朝よりも艶やかな感じがする。
秋からずっと忙しかったり体調を崩したりして延期していた、「惟」の連載のための「空海を巡る旅」へ、週の初めに出かけることにした。本当は室戸岬で日の出を見たいと思っているのだが、天気予報によるとちょうどその日は雨。何とか前倒しになって、雨雲が早めに通り抜けてほしいと願っている。
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辞書
☆〔五大ごだい〕地・水・火・風・空の五つをいう。一切の物質に偏在して、それを構成するもととみて大という。
☆〔六大ろくだい〕仏教用語で、万物を構成する六つの要素。地・水・火・風・空・識。六界。密教では法身大日如来の象徴とする。
☆〔識しき〕仏教用語で、対象を識別する心のはたらき。感覚器官を媒介として対象を認識する。六識・八識などに分ける。
☆〔法身ほっしん〕仏教用語で、永遠なる宇宙の理法そのものとしてとらえられた仏のあり方。
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