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    「風の起こる処」 第3章 (その4)

    • 2013.02.27 Wednesday
    • 01:03
      さらにここでもう一つ、桓武天皇が唐突に思えるほど、いきなり遷都を敢行したこと を考えてみたい。

     戦前の著名な歴史学者喜田(きだ)貞(さだ)吉(きち)は、我が国の古代宮都研究の先駆けとなった名著『帝都』のなかで、「桓武天皇の長岡遷都は、歴史上もつとも解すべからざる現象のひとつである。」と書いている。

     この長岡京遷都の理由として、(一)水陸の便が優れていること、(二)奈良の旧勢力の影響から逃れるため、(三)南都の寺院勢力が政治に口を挟むことを嫌ったため、(四)渡来人の協力を得るため、(五)天武系から天智系へと天意によって新たな王朝がスタートするため、(六)怨霊から逃れるため、などの諸説が唱えられてきた。確かにこれらの原因が複雑に絡み合って遷都へと当時の山部親王(桓武天皇)を突き動かしたに違いない。また、桓武天皇は父である光仁天皇から始まる時代を天智系の王朝と考え、天応元(七八一)年、即位後初めて大極殿に臨んで出した詔で次のように述べている。

     「近江の大津の宮に御宇天皇(天智天皇)の初め賜へる法のまにまに受け賜はりて、仕へまつれと仰せ賜ひ授け賜ふ。」

     これらの理由のほかに近年注目されているのは、桓武天皇が道教思想に基づいて天帝の住む天宮を地上に再現しようとしたという考え方である。(『日本の道教遺跡』ほか)

     平城宮祉資料館にも多くの呪符木簡が展示されていたが、この他にも多くの大祓の祭具が出土品の中から発見されており、大祓の神事は道教の影響が大きいとされている。

     長岡京の朱雀大路の中軸線の延長四百メートル東、内裏跡の中軸延長線の西二百メートルに交野山がある。道教思想によると南に朱宮というものがあり、そこは天界に通じているとされた。交野山が長岡京の南にあるのは偶然ではなく、この山を聖なる山として、中国古代の都をモデルとし、道教思想に基づく天界の都をイメージして長岡京を造営したものと思われる。

     また長岡京遷都の日は延暦三(七八四)年十一月十一日。皇后も中宮も伴わず強行された。『続日本紀』には「天皇移幸長岡宮」としか書かれていない。これらの研究書には「甲子朔旦冬至」を意識して定められたものと指摘されている。つまり「甲子」は「革令」の年であり、「朔旦冬至」(十一月十一日が冬至となる)は十九年に一度巡り来る瑞祥の日であり、「甲子朔旦冬至」となると四六一七年に一回しか巡って来ないのだという。しかも山部親王(桓武天皇)は生存中の光仁天皇から天応元(七八一)年に皇位を受け継いでいる。辛酉革命といわれる年であり、この年には天帝が新たに有徳者を選んで天子につける年と言われている。

     このように考えると長岡京に新たな寺院を建設しなかったことも、旧勢力を忌避したことよりも、もっと宗教的な意味を持つのかもしれない。大極殿を取り巻く回廊に囲まれた大極殿院の前に朝堂院という建物があるが、平城宮や平安宮では十二の朝堂があったことが分かっているが、長岡京の場合は八堂院なのだという。道教思想では八という数字が大事にされるのだ。

     この他にも近年さまざまな著書で、当時の道教について述べられているが、とりあえずはこの辺で筆を置く。只一つ明記しなければならないことは、この時代には儒教や仏教と同じくらいに深く、道教もまた広く流布されていたということである。

     

     十月半ば、京都へ行く途中に長岡宮跡に立ち寄った。阪急電鉄で大阪梅田から高槻を過ぎ、京都河原町までの路線の途中に、西向日という各駅停車しか停まらない駅がある。改札口を出るとすぐ前に西向日商店街という文字が見える。商店街と言っても店の数は五、六軒位だろうか。その道をほんの少し北へ歩くと、道の左側に長岡宮朝堂院跡という看板が建っていて、当時の建物の所在地を示す図面も書かれている。現在ではかなり発掘調査が進められ、高槻市の教育委員会によって、少しずつ整備されつつある。

     

     そこからさらに北へ歩いて行くと、大極殿という名の交差点に出る。その右手前方に緑の茂った地域があり、まず閤(こう)門(もん)跡(大極殿の入口)があり、道を隔てて大極殿跡と小安殿(後殿)跡があり、現在は史跡公園として整備され、「大極殿公園」と呼ばれている。入口に宝憧(ほうどう)跡があり、これは天皇の即位式と元旦にのみ立てられる特別な装飾具であるという。たった十年で廃都となったことを思えば、一年に一回、元旦にのみ用いられたことになる。

     現在の地名は向日市鶏冠井町となっている。桓武天皇が都を移した十一月十一日に、毎年「大極殿祭」が大極殿遺蹟保存協賛会によって執り行われている。

     

     若年の頃に既に仏道を志していた真魚にとって、叔父阿刀大足に勧められて大学寮に入学したものの、そこで学ぶことは何一つとして心に響くものはなかった。むしろ元興寺や大安寺を訪れ、多くの高僧と出会った時こそ、水を得た魚のように彼は生き生きと輝く眼で、ほんの少しのことさえも聞き漏らすまいと熱心に学び、全身の血を滾らせていたことだろう。それゆえになお、大学寮での学問は日に日に耐え難くなってきたのであろう。当時の政治も学問の世界もほとんどすべて唐に倣って儒教を中心としたものだった。

     それに反し、当時の仏教は、現代のような葬儀を執り行うための宗教ではなかった。儒教がいわば、この世の生き方の術を身につけるのが目的だとすれば、仏教は生とは何かを考え、その生において、いかに生きるべきかを考えることが目的だったと言える。特に興福寺・薬師寺を大本山とする法相宗、元興寺の三論宗は、いずれも識のほかにはすべての事物的存在を否定する「唯識」に依拠していた。

     

     唐突にも思える平城京から長岡京への遷都にあたって、当時の民の労苦や疲弊を、真魚はどのような思いで眺めていたのだろうか。何の疑問もなくただ日々の暮らしを易々として過ごすには、彼は余りにも純粋であり、深く考えざるを得ない性癖を持っていたと言える。そしてある日突然、彼は大学寮からも、平城(なら)の都からも姿を消すのである。

     もし現代に真魚が生きていたなら、もっと複雑な多種多様な価値観をいかに解釈し、取捨選択し、選び取って行ったのだろうか。そのことを思うと興味が尽きないのであるが、この時代、彼が呈示されたのは先に述べた三者であった。もっと深く熟考し、学ぶために、彼は大学寮を放棄し、どこへともなく旅立つのである。そして最終的に彼がとった手段は、この三者を比較しながら、自らの思想をまとめ、披歴することであった。しかし初めての著書『聾瞽指帰』を著わすまで、未だ四年余りの歳月を待たねばならなかった。         (続く)


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    「風の起こる処」第3章 (その3)

    • 2013.02.26 Tuesday
    • 01:46
      或る年の夏、東大寺の万燈供養会に参列する前日、平城宮跡資料館を訪れた。これまで長岡京遷都の後、平城宮はそのまま残されたのだとばかり思っていたが、そうではなく、平城宮の建築物を取り壊して運び、新都の建造物に用いたのだという。おそらく遷都後の平城京の荒廃は想像を絶するものがあったと思われる。    

     真魚が讃岐から叔父に伴われて入京した都が、長岡京だったとしても、大学寮が未だに平城京にあったと考えられる以上、住まいを平城京の近くに定めたものと思われるので、旧都に移ってそんなに日が経たないうちに、真魚もまた平城宮を見に行ったことだろう。荒れ放題のかつての都の夢のあとを見て、少年の心はどのように傷んだことか。                    その一方で東大寺や興福寺・春日大社の壮大さを見て、言葉には言い表わし得ない矛盾もまた感じたであろう。しかもその東大寺の建築に携わったのは一族の長である佐伯今毛人であった。                                    思えば真魚(空海)は、人生のスタートにおいて既に、幾重にも複雑に織り成された社会や政治の様相を、目の当りにしなければならなかったのだ。とはいえ今はただ大学寮の受験のために励まなければならない時期だった。それらが柔らかな感じ易い少年の心に深く影響を与えたとしても、とりあえず今は周囲の状況を見るいとまもなく、ただ一途に勉学に邁進するのみであった。

     三年間の勉学期間の後、真魚は当時の大学寮明経科へ進学する。『日本紀略』には次のように書かれている。


        延暦十年辛未

      是歳、大師、大學明經ノ科試ニ及第シ、大學博士岡田牛養ニ春秋左氏傳等ヲ、直講味酒浄成ニ五經等ヲ學ブ、


     平城京のどこに大學寮があったのか、未だに明らかではない。これまでも大極殿をはじめ、発掘・復元作業が進んでいるので、近い将来にその場所を確定できることを期待している。                       平安京の大學寮址は確定されていて、朱雀大路の東、二条大路の南、三条坊門小路の北に当たる四町の区域を占めていたという。たとえばこれを平城京の地図上に置いてみれば、朱雀門を出てすぐ、国道一号線から現在の奈良のメインストリートである大宮通に至るまでのどこか、あるいは二条大路南一の交差点から三条大路二の交差点の間辺りなのか、様々に想像は膨らんでゆく。ともかくもここがこれからの真魚の日々の生活の中心となるのであった。    しかし大学寮での真魚の生活がどのようなものであったか、これ以上の記載は当時の書物にはない。

    空海の著書『三教指帰』の中には次のように書かれている。

      余年志學。就外氏阿二千石文學舅。伏鑚仰。二九遊聴槐市。拉雪螢於猶 怠。怒縄錐之不勤。爰有一沙門。呈余空蔵聞持法。其経説。若人依法誦此 真言一百万遍。得一切教法文義暗記於焉信大聖之誠言。

      (私は十五歳になった年、母方の伯父である阿刀大足(あとのおおたり)、禄は二千石で親王の侍講(じこう)であった人につき従って、学問にはげみ研鑽(けんさん)を重ねた。十八歳で大学に遊学し、雪の明りや蛍の光で書物を読んだ古人の努力を思い、まだ怠っている自分を鞭打ち、首に縄を掛け、股に錐を刺して眠りを防いだ人ほどに勤めない自分をはげました。ここにひとりの修行僧がいて、私に「虚空蔵求聞持こくうぞうぐもんじの法」を教えてくれた。この法を説いた経典によれば、「もし人が、この経典が教えるとおりに虚空蔵菩薩の真言を百万回となえたならば、ただちにすべての経典の文句を暗記し、意味内容を理解することができる」という。)

     

     確かにここには極限まで精励刻苦した、大学寮進学前後の真魚の姿が書かれている。しかし大学寮で学んだ内容については一言も書かれていない。そればかりか唐突に「虚空蔵求聞持法」という言葉が現れる。

     また『御遺告』には次のように書かれている。

       然後及于生年十五入京ジュケイ。初逢石渕イワブチノ贈僧正大師受大虚空蔵等能満虚空 蔵 法リヨ入心念持。後ケイ遊大學従チヨク味酒浄成アチサケノキヨナリ左傳尚書。復問左氏春秋■ 岡田博士。博覧經史専好佛經。恒思我之所習上古俗教眼前都無利ヒツイハムヤ一期 之後此風ステミナム。不如仰真福田。

      (このようにして、十五歳になったときに都にのぼり、そこではじめて岩淵(いわぶち)の僧正の位を贈られた勤操(ごんぞう)という偉大な師にお目にかかり、大虚空蔵(だいこくうぞう)などの法や能満(のうまん)虚空蔵(こくうぞう)の究極の法を授かり、一心に真言の念誦、受持につとめた。                              のちに大学に入って、直講じきこう(博士を補佐し経書を講義する者)の味酒浄成うまさけのきよなりについて『詩経』や『春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん』『尚書しょうしょ』を読み、『左氏春秋』を岡田おかだ牛養うしかいという博士に学んだ。ひろく儒教の経書や史書を読んではみたが、おもに仏教の経典を好んだ。つねづね、自分がいま学んでいるところの古い昔からの世俗の教え、(儒教)は、目前のことについてはなんら役に立つところがないように思っていた。死後はそれによって影響されるところがないであろう。真の福田ふくでん(福徳を生み出す田)である、仏を信仰するのが最高である、と。)

      さらに『空海僧都そうず伝』にも次のような記載がある。

       年始めて十五にして、外舅をぢ二千石阿刀大足あとのおおたりしたがひて、『論語』『孝経かうきょう』及  び史伝等を受け、兼ねて文章を学びき。

       入京の時、大学に遊び、直講(ぢきかう)味酒浄成(うまざけのきよなり)に就いて、『毛詩(もうし)』・『尚書(しやうしよ)を読み、『左氏(さし)春秋(しゆんじう)』を岡田博士に問ふ。

      (十五歳になったときは、母方のおじ、阿刀大足について『論語』・『孝経』をはじめ、歴史や伝記など  の手ほどきを受け、文章(もんじよう)を学んだ。

      上京して大学に入り、直講の味酒浄成について『毛詩』(『詩経』)と『尚書』(『書経』)とを読み、『左氏春秋』(『左氏春秋伝』)を岡田牛養博士に習った。

     

    いずれも時を経た後の記述であり、空海自身が書いたものではない。しかし十分に真魚の当時の姿を映し出している。

    忘れてはならない。この少年にはそもそも七歳の時に既に、衆生済度の願いをかけて断崖から身を投げたという伝説が残されているのである。

    『御遺告』に書かれていることが事実だとすると、真魚は大学寮に入学する前に勤操に出会っていたことになる。もしかすると伯父の阿刀大足の思惑とは別に、都に上ることによって、仏道の良き師に巡り合えるかもしれないと、真魚は密かに考えていたのかもしれない。

    当時の大學寮では、明経道(儒教)、算道(数学)、音道(中国語の発音)、書道、明法道(法学)、紀伝道(史学)、及び文章道が中心であった。それらはいずれも世間を渡るための、いわばこの世の学問であった。そこでは生死の問題は取り上げられなかった。仏道を志す少年にとっては、それらは生きていく術になったとしても、到底生きる目的にはなり得なかった。    真魚がもし佐伯院、あるいはその近くに住んでいたとすれば、元興寺は隣り合わせであり、大安寺もまた大学寮へ行く道の途中であった。当然のことながら早い時期にこれらの寺院を訪れたものと思われる。

    元興寺は蘇我馬子によって建立された法興寺(飛鳥寺)が、養老二(七一八)年に新京に移されたものである。法興寺(飛鳥寺)は三論・法相の両学派が最初に伝えられたところであり、都が移ったのちも、依然として東大寺に次ぐ位置を与えられていた。天平勝宝元(七四九)年に墾田の地限が定められた時には、東大寺の四千町歩に対し、元興寺は二千町歩、大安・薬師・興福寺は一千町歩であったという。                       現在は寺の面影を残すのは奈良町の中にひっそりと佇む元興寺極楽坊のみであり、小塔院は僅かな境内を残すのみである。              元興寺極楽坊の残されている極楽堂と禅室の屋根の行基葺瓦には、飛鳥時代創建の法興寺の瓦が未だに混じっていると言われている。                   

     唐に渡って玄奘三蔵について学んだ道昭が六六〇年帰朝し、元興寺に住み禅を講じ、法相宗を広げた。道昭は各地を行脚し、井戸を掘り、橋を架け、舟着き場を作って社会事業を指導したことでも知られている。その後を継ぐのがやはり唐で学んだ智通、智達であり、さらに興福寺を中心に普及した智鳳がいる。この智鳳に学んだのが義淵である。義淵は大和国高市郡の出身で、阿刀氏であるという。その門下に行基、良弁や神叡がいる。            一方、大安寺は六三九年、聖徳太子の委託を受けた形で田村皇子が舒明天皇となったのち、熊凝精舎を百済川の畔に移して百済大寺とした。その後、六七三年天武天皇の命により香具山の南に移し、高市大寺となり、さらに大官大寺と改称された。平城京遷都に伴い、移築されて、七四五年、大安寺と再び改称された。この移建は長安の西明寺に留学した道慈によって指導され、西明寺を模して造られた。大安寺式と呼ばれる壮大な伽藍であったという。国家鎮護の寺として、また東大寺開眼供養を司った、インド僧菩提僊那ぼだいせんな、唐の僧道せんやベトナム僧仏哲なども止宿し、国際的な色調をも帯びていた。          

     初秋のある日、この大安寺を訪れた。現在の門は、昔の南大門があった場所に建てられている。門を入ると中門跡の石碑が建っている。往時を偲ぶものは今はもう何も残っていない。近来、発掘調査が進み、現在の境内の南には東塔と西塔の跡が残っており、いずれも60メートルを越える巨大な塔であったと推測されている。平城京の朱雀門を出て朱雀大路を南にまっすぐ下がってくると、この大寺の威容が目に映ったことであろう。大学寮を出て佐伯院へと向かう道の途中、この塔を仰ぎ見ながら歩く真魚の姿を想像すると、彼の仏教への憧憬のようなものも伝わってくるような気がする。          

     道慈は三論に精通し、「金光明最勝王経」「虚空蔵求聞持法」をもたらし、養老三年には神叡とともに食封五十戸を賜っている。後に空海を出家させた剃髪の師と言われる勤操は十二歳で大安寺に入門し、二十三歳の頃、具足戒を受け、善議大徳に師事し三論の奥義を授けられたという。最澄もまた若年の頃、この大安寺で修行したという。空海は八二九年、この大安寺の別当に就任している。                                 三論とは龍樹の「中論」、「十二門論」、と龍樹の弟子、提婆だいばの「百論」を指し、この三論を拠り所として大乗のくう思想の徹底を説くのが三論宗である。一方、法相宗は、インド唯識思想の代表的経典「解深げじん密経」、「成唯識論」などを典拠とし、一切存在は識(心)の作り出した仮の存在で、阿頼耶あらやしき以外に何物も実在しないと説く。ここでは敢えて辞書的な説明のみに留めておく。                             (続く)

     

    「風の起こる処」第3章 その2      紫野京子

    • 2012.12.07 Friday
    • 14:44
     阿刀大足は桓武天皇の長子である皇子伊予親王の學士であったため、ずっと讃岐にいるわけにはいかなかった。『御遺告』に「然後及干年十五入京」と書かれているように、真魚もまたこの伯父についてさらに勉学に励み、大学寮への入学準備のため、都へ上ることになる。『続日本紀』に「延暦三年十一月、戊申、天皇移幸長岡宮」とあるように、この頃の都は長岡京にあった。近年、大極殿を中心とする朝堂院と呼ばれる建物群や大蔵省などの配置が、発掘調査によって次第に分り始めて来ていて、従来、未完の都であったと言われていた説が疑問視されているという。しかし延暦二年に発布された太政官符によると、新たに寺院の建設は一切なされていない。したがって多くの寺社や学問の機関は、たとえ都が移されたとしても、以前として平城京にあったものと思われる。

    真魚が讃岐を発って最初に着いたところが長岡京であったか、平城京であったかを判断する資料は残されていない。『三國傳記』に「和云、御年志學、延暦七年、舅氏伴家郷出花洛入、」と書かれているが、その他の文書においても、同じような記述がなされているに過ぎない。しかしこれまで当然ながら奈良にあったと思われる、伯父阿刀宿禰大足の屋敷に滞在していたと考えるのが妥当であろう。その屋敷の所在も明らかにはされていないが、佐伯一族の長であり、出世頭であった佐伯今毛人が当時の政権の一翼を担っていたことから、平城京あるいは長岡京でも下京の一部にその館があったものと思われ、真魚は一族の佐伯氏を頼ってその館の一部に住んでいたとも考えられる。

     

    角田文衛著『佐伯今毛人』(吉川弘文館・昭和三八年)は、「桓武天皇の延暦九年(七九〇)の十月三日、散位の正三位佐伯宿禰今毛人が薨去した。」ところから始まっている。「佐伯宿禰は、名門の大伴宿禰の支流であり、古来、大伴氏とならび称された武門であった。〈中略〉佐伯部は、五‐六世紀のころ大和国家の特別な征討によって捕虜となった蝦夷であったようである。彼らは、佐伯部という名を帯びた隷民(半自由民)とされた上で、播磨・讃岐・阿波・安芸などにそれぞれ配置され、その国の国造(自治的小国家の王)の支配に委ねられたのである。佐伯部を領するため、これらの国造気は佐伯直という姓を帯びるようになった。弘法大師などは、讃岐の佐伯直の出身なのである。そして中央政府にあって、これら諸国の佐伯直を統率する職掌をもっていたのは、すなわち佐伯連であった。そして佐伯連は、天武天皇の十三年(六八四)の四月、大伴連とともに、宿禰の姓を授けられ、佐伯宿禰となったのである。」

    大伴・佐伯両氏の人々は、大化改新後、藤原氏の進出により、その勢力の後退を余儀なくされた。しかし天平九年における天然痘の流行により、藤原氏の四兄弟がすべて薨去し、藤原氏の勢力は急速に後退した。これにより聖武天皇の親政が初めて可能となり、新たに橘宿禰諸兄の政権が樹立した。この頃、聖武天皇は全国の国分寺を改組・発展させて金光明寺・法華寺を造営しようという壮大なプランを抱き、天平十二年二月には、中央の金光明寺に盧舎那仏の虚像を造顕しようと発願された。『続日本紀』(延暦九年十月三日条)には次のように書かれている。

    「天平十五年、聖武皇帝、願ひを発して始めて東大寺を建てんとし、百姓を徴し発たして、まさに労作を事とす。今毛人、ために催撿を領し、頗る方便をもつて役民を勤め使ふ。聖武皇帝、その幹勇を録して殊にこれを任使せり。」(原漢文)

    しかし事業はなかなか思うように捗らなかった。紆余曲折の後、天平十八年三月五日には大倭金光明寺造営のための人事が発令され、今毛人は少掾に任命された。今毛人が造営事業に精魂を打ち込んだことは『延暦僧録』(第四)にも書かれている。

    「平城の後の太上天皇(聖武)、東大寺を造らんとするや、(今毛人を)差はして別当造寺官となす。常に斎戒を持す。天皇、名づけて「東の大居士」となす。」

    この書には今毛人の住居の所在地を推定し、次のように書かれている。

    「現在、造東大寺司の遺址は明らかでないが、その名は、雑司町の名で遺っており、位置に関して大体の見当はつくのである。すなわち、一条南大路をまっすぐに東に行くと、東大寺の西北大門(佐保路門、現在は転害門)につきあたる。この門をはいって左手の地域で、正倉院までの間に造東大寺司の建物があったと推定されるのである。これから憶測すると、十一年間にわたって右の宮司に勤めた今毛人の自宅は、左京一条七坊に、つまり役所に最も近い市街地の、佐保川のほとりの辺にあったのかもしれない。」

     古文書によると勝宝四年四月の造東大寺司の幹部には「次官 正五位上佐伯宿禰今毛人(兼下総員外介)」と同時に、「主典 従七位上阿刀連酒主」の名も見える。この阿刀氏が真魚の伯父、阿刀大足とかかわりのある人物であったかどうかは定かではない。しかしここで阿刀氏もまた造東大寺司の幹部であったことを見ると、その住居も佐伯氏の館の近くにあったと思われる。

     

    この書物を読み進むうちに、筆者は数々の興味深い事柄に遭遇した。そのうちの一つは『正倉院文書』に書かれていたという「造東大寺司沙金奉請文」である。ここには「造東大寺司長官佐伯宿禰 今毛人」の署名も見られる。

    天平感宝元年閏五月、聖武天皇は、大安寺以下の五大寺に、墾田地各百町を施入されたという(『続紀』)。東大寺は、越前国の足羽郡・坂井郡・丹生郡において墾田地を給された。(古文書)越前平野でとれた米は三国湊に集荷され、船で敦賀に運ばれる。北陸道、愛発関、近江国浅井郡の塩津郷を経由し、、船で琵琶湖を縦断して、志賀郡の粟津市に至り、瀬田川を下り、石山寺の前を通って山脊国の宇治、木津を経て、奈良山を越えると平城京なのだという。

    しかし元々、越前平野は洪積世には港湾の海底であり、天平時代には一面の沼沢地(葦原)であったという。造東大寺司は越前平野の開発事業も行わなければならなかったのである。その頃の造東大寺司には、史生として第初位上生江臣東人、写経所の舎人として安都宿禰雄足などがいた(古文書)。次官の今毛人は、東人をその出身地である越前国足羽郡の大領とし、雄足を越前国史生となした。この雄足が、名前からすると真魚の伯父、阿刀大足であったとも十分考えられる。今毛人も幾度も現地を訪れたことであろう。

     

    全くの余談であり、私事にかかわることであるが、筆者の父(既に故人)の出生地はこの越前丹生郡であった。彼は休日になると時折、当時住んでいた大阪の家から一人で奈良や吉野を訪ね歩いて、何か一人で調べていた時期があった。調べていたことが何であったのか今となっては謎のままなのだが、この件を読んだ時、「ああ、このことだったのだな。」と思い当たるような気がして、父が生前、東大寺の元管長、清水光照師と親しく頻繁に語り合っていたことも、それ故だったのではないかと思われた。何十年も経て内容には隔たりがあるにせよ、歴史の彼方の同じ時、同じ場所を筆者もまた訪ね歩いているのかと思うと感慨深いものがある。

     

    さて話を元に戻そう。勝宝六年、鑑真が東大寺に入り、今毛人は次官として鑑真一行を接待したばかりでなく、戒壇院や唐禅院の建立に携わり、さらに陵墓の築造にも参与する。しかし聖武天皇の崩御後、藤原仲麻呂が権力の座に就き、今毛人は大宰府の「営城監」に任命される。三年後の神護元年に彼は再び造西大寺長官に転補され、平城京に戻って来る。同年八月、今毛人は太政官左辦官局の長寛である左大辦を命じられ、実に十年二カ月に及ぶ任期を勤め上げるのである。さらに遣唐使に任じられながらも入唐を中止し、太宰大弐、左大辦への再任を経て、ようやく従三位に、さらに参議に任じられる。彼は左大辦兼大和守県皇后大夫でもあった。延暦三年十一月十一日、桓武天皇は長岡京に移られたが、皇后は平城京に留まられ、翌年新京に赴かれた。今毛人はおそらくこの時に長岡京に移ったと思われる。延暦八年(七八九)正月九日、今毛人は上表して致仕(七十歳以上に達しての退任)を願い出て許される。その時から延暦九年の薨去の時まで、彼が長岡京に住んでいたか、あるいは平城京か、定かではない。参議を辞してもその職封の半分は引き続いて支給された。彼はそれらをほとんど、佐伯院(正式には香積寺)の建立に注ぎ込んだ。

    「東大居士伝」(『延暦僧録』第五)には「得る所の官禄は、二分にて経を写し、先に国恩に報い、後に品類を霑し、いまだ自身・六親・知故に及ばず」(原漢文)と記されている。受けた官禄の八割を佐伯氏のために使用したという意味である。そのほとんどが佐伯院の建立の資金であったと思われる。大伴氏が氏寺として大伴寺(永隆寺)を持つように、佐伯氏も氏寺を持ちたいというのが、真守と今毛人の兄弟の悲願だった。

    「宝亀七年(七七六)の「佐伯宿禰今毛人・同真守連署送銭文」(『古文書』)と延喜五年(九〇五)の「佐伯院付属状」(『平安遺文』))によると、宝亀七年の初め、佐伯兄弟は、勅許を得て東大寺から一町二反一二四歩の土地を購入し、ここを彼らの氏寺の敷地としたのである(『平安遺文』)。東大寺から購入した分は、実は天平勝宝八歳(七五六)六月十二日に、東大寺に直施入された土地である。その施入の勅書(『古文書』)には、

       五条六坊園 葛木寺以東

        地肆坊 坊別一町二段(百)廿四歩

         四至 東少道、南大道、西少道 葛城寺、

    北少道 大安寺薗、

    と記入されている。この勅書には、勝宝九歳正月四日に左京職が勘注した絵図が添えられており、その土地の所在を明確にすること ができるのである。」

    と書かれている。

    「東少道」は五条七坊の一・二・三・四の坪の東を通る小路、「南は大道」は五条大路、「西少道 葛木寺」は、五条六坊の六の坪と十一坪の間を南北に走る小路と、五坪にあった葛城寺とを示すものである。「北少道 大安寺薗」は、東西に走る小路と、五条六坊十四坪にあった大安寺の井薗(井戸のある園地)をさしている。

     

    まだ早春の頃、所要があって奈良町のカフェへ出かけることがあった。かつてそこは元興寺の講堂があった場所であったという。現在残っている元興寺よりもはるかに大きな寺院であったということを念頭において、当時の平城京の復元した地図と現在の奈良の地図を比べながら、この辺りを歩いて見た。

    「佐伯院は、奈良市木辻町西辺に位置していたことは確かである」という言葉を頼りに、平城京図によると当時の佐伯院は元興寺の隣ということになるので、奈良町を南に下り、ひっそりと咲いている紅梅の香る元興寺小塔院跡を通り抜け、その通りをさらに南へ歩き、そこから西へと進む。

    観光地と化しているのは奈良町のほんの一角だけで、そこを過ぎると下町の雰囲気の古い家が続き、広い道路に面して、それほど大きくはないマンションやビルディングや店舗などが立ち並ぶ一画が、かつての佐伯院のあった場所だと思われるのだが、往時の面影を偲ぶようなものはかけらも残っていない。それでも西に傾いた日差しを浴びながら、空想の中で、十五歳の少年真魚が、一族の氏寺としてようやく建立された佐伯院香積寺の境内に初めて立ち、遠い目で未来を思っていた姿を思い浮かべるよりほかなかったのである。                       


    (続く)


    「風の起こる処」第3章 少年時代(その1)

    • 2012.11.17 Saturday
    • 00:48
    第三章 少年時代

     当時の讃岐國の中心は現在の讃岐府中駅の周辺にあった。当初の予定では丸一日かけてゆっくり讃岐國府跡の全貌を見たいと思っていたが、目覚めると既に雨。それも集中豪雨になりかねない天候である。予定を変更して午前中で切り上げることにして、とりあえず讃岐國府跡を見に行くことにする。前夜宿泊した丸亀を出て、国道11号線をひたすら東へ進み、予讃線の踏切を越え、線路沿いに駅の手前まで来て、善通寺の方へ再び引き返す。すぐに「埋蔵文化センター」の表示を見つけ右折して小さな橋を渡る。資料によるとここからすぐに右手の田圃の中に国府跡が見えるはずなのだが、建物が立っているせいか、全く何も見つからない。暫く車を走らせ、これ以上行くと遠ざかるだけだと思って、一旦道の端に寄せて停車する。位置を確かめるために車から降りると、すぐ後の道の角を入ったところに小さな石碑が建っている。近づいてよく見ると、崇徳天皇が都からこの讃岐に流されて、住んでおられた時に使われた泉水の跡で、「内裏泉」と彫られている。暫く眺めた後に、その細い道をもう少し進み、さっき来た道に再び戻って、同じコースを辿り、再び最初の橋のところまで戻る。今度は見落とさないようにゆっくり進むと、川を渡ってすぐのところに、手書きで「府庁跡への近道」と矢印が出ているのを見つけ、右折して進むと、田圃の中を細い道がどこまでも続いている。途中までそのまま車を走らせていたが、これまでの舗装した道が途切れ、地道になってしばらくすると墓地に辿り着く。田圃の真中で見晴らしの良いところだったので、車から降りて辺りを見ると、左手のはるか向こうに白い木の道標が見える。何本かの舗装された道があって、国府跡と見られるところまで続いてはいるがかなり細く、このまま進んだらもしかして通れなくなった時、引き返せなくなるかもしれないと思い、とはいえこのまま道を塞いだまま、車を置いておくわけにも行かず、仕方なく少し広い場所までバックで引き返すことにする。こんなところまで来てまさか昔教習所で経験したのと同じことをする羽目になるとは・・・。

     傘を差して一人で歩いて行くと、辺りは一面田植えが終わったばかりの田圃である。城山がなだらかな美しい姿を水田に映している。ようやく讃岐国府跡と書かれ、石積みで囲われた石碑の立つ場所に辿り着く。今はかなり発掘調査が進んでいて、この地域に国府としてのさまざまな機能を持つ建物が散在していたことが明らかになっている。横に立てられた木の板に、その配置図が書かれている。

     その中に「聖堂」と書かれているのが、その当時、「国学」と呼ばれた地方の教育機関である。七〇一年に制定された「大宝律令」によって、中央には本科と数学科からなる中央の官僚養成機関である「大学(大学寮)」が置かれ、地方には国毎に、郡司の師弟を教育する地方の官僚養成期間である「国学」が置かれた。いずれも身分や年齢による入学制限があった。

     少年真魚はおそらく十三歳の頃にこの「国学」に入学したと思われる。あるいは入学しないまでも、それに近い勉学を習得したに違いない。年譜には誕生の時から十五歳までは全く空白であるが、『御遺告』に「爰外戚舅阿刀大足大夫等曰。縦爲佛弟子不如出大學令習文書立身。任此教言受俗典少書等及史傳兼學文章。」(ここに母方の親戚で伯父に当る阿刀大足などが、「たとえ(夢にみたように)いずれ仏の弟子になるかも知れないが、大学に入って世俗の学問の書物を学び、身を立てるようにさせるのが最上である」と勧めた。そのすすめにしたがって世俗のいくらかの書物などや史伝について教えを受け、同時に文章についても学んだ。)と書かれている。いかに真魚が神童と呼ばれた少年であったとしても、入京する十五歳までにこれだけのことを学ぶには、とても一年では足りないと思われる。また、阿刀大足から個人的に学んだとしても、それは善通寺のある多度津近辺ではなく、さまざまな学問の書物や、人材の集積された讃岐国府の近くでなければならなかった。 

     話は遡るが、ずっと以前に、この「空海を巡る旅」を計画していることを、今は亡き村岡空師にお話したことがあった。その時、村岡師は私が列挙した場所の他に、「是非行って見なさい。」と、満濃池ともう一つ、ある神社の名を挙げられた。多分その時、「空海のお母さんの実家があったところ」という言葉を使われたと思う。実際に行くことになったら、もう一度詳しく伺うつもりで、もう何年も歳月が経ち、メモを取ったかどうかも定かではなくなって、当のご本人も既に彼岸に旅立ってしまわれた。今回、旅に出る前にそのことを思い出し、私は朧な記憶を手繰り寄せるべく、さまざまな本や地図、さらにはネットをも駆使して、何とか目的地に辿り着こうと試みた。その話を伺ったすぐ後に、一度だけ地図上で探したことがあったような気がして、何となく、屋島だったか、五色台だったか、近くにあったような・・・ということだけを頼りに、香川県内の神社を片っ端から調べてみた。

     何日かの後、その中の神社の縁起を調べていて、思いもかけぬ言葉が飛び込んできた。「創祀年代は不詳。社傳によると、神谷に自然に出現した僧侶によって祀られた社だという。その後、嵯峨天皇弘仁三年に、弘法大師の伯父・阿刀大足によって社殿が造営され、春日神を配祀されたという。」

     「これだ!」と私は心の中で叫んでいた。地図を見て確認する。讃岐国府跡から真北に3劼里箸海蹐任△襦G鯤寺のある白峰山の麓で、五色台はそこからさらに北東に当る。

     当然のことながら、今回のコースにこの神社を入れていた。大雨のなか国道11号線を暫く進んだ後、五色台の方へ向かう道に入り、神谷町の信号のところでさらに細い道へ入る。小さな橋を渡ってすぐに右折すると、石の鳥居が見える。神社の参道である。そこからさらに東へ真っ直ぐ進むと境内の石の鳥居の向こうに朱塗りの神殿が見える。鎌倉時代の建造物で国宝であると書かれている。資料には創祀年代不詳とあったので、もしかして平安朝の建築物が遺っているのでは、という期待ははずれたが・・・。本殿は鎌倉初期に建築された三間社流れ造りで、当初のままに現存し、建築年代の明らかな社殿としては我が国最古のものであるという。しかし肝心の本殿は、朱塗りの社殿の奥に位置するのでよく見ることが出来ない。一旦境内を出て、裏に回ることにする。社前広場の左側には七重層塔が二基建っていて、塔身には仏像形と梵字が彫られている。横手に回ると社殿の塀の外に細く背の低い六角の石塔が立っている。その前にも石の鳥居がある。これも鎌倉末期のもので経塔と考えられるという。いずれも元はこの社の神宮寺であった清瀧寺のものだという。

     社殿の後ろに回ると土塀の周りは鬱蒼とした森である。ここでも樟の大樹が目に付く。地面はびっしりと春の落葉に覆われている。所々に小さな塔のように石が積まれている。大きな岩もある。そこからさらに山道を50mほど登ると、神谷川の側に巨巌がある。古代神谷神社が建立されるまでは、この巌が神の依代として祀られたで、古代祭祀の址であるという。由緒書を見ると「神谷神社の創祀は、太古、神々がこの渓谷に集い遊んだところからこの地を神谷と言い、また自然居士なる人がこの川淵に忽然と現われ、傍の対岸を祭壇として天津神を祀ったと傳えられているが、この付近からは弥生時代の石 ・石斧・土器などが出土し、神社の裏には影向石と呼ばれる磐座があって、その祭祀が古代に創ることを物語っている。」と書かれている。 

        

     この神谷神社の他にもう一つ、鴨神社という神社が予讃線鴨川駅からほんの少し東側に存在する。現在では香川県坂出市加茂町という地名になっているが、神谷神社の真南にあたり、五夜嶽、烏帽子山の麓である。現在は東鴨神社、西鴨神社の二社に分かれているが、当初からそうであったのかどうか。このうち東鴨神社(香川県坂出市加茂町九九二)は、社伝によると弘仁四(八一三)年、空海の伯父、阿刀大足が大和国高鴨社を勧請したと言われている。当時は大明神原という場所に鎮座していたが、焼失により現在地に遷座したという。もとは葛城社とも呼ばれ、玉依姫命を祀っている。もう一方の西鴨神社の方は、天平年間、時の国司藤原景高が、雷雨洪水の害を除くため、賀茂別雷神を勧請したものという。現在でも東鴨神社の辺りは鴨庄と呼ばれている。 

    阿刀大足とはいかなる人物であったのだろうか。村岡空師はその著作「優波塞仏教と空海」(『弘法大師空海―密教と日本人』第四章 和歌森太郎編著 遊渾社 一九七三)のな

    かで、空海の父の出自である佐伯氏と、母の出自である阿刀氏のことを詳らかに述べている。それによると「空海の父方の先祖は大伴氏系ではあるが、厳密に言えば蝦夷人であり、」母方は「物部氏系の阿刀氏」であり、「大伴・物部、大伴・佐伯部という両氏族の対立の歴史からすれば、皮肉にも敵方との婚姻関係が二重三重に結ばれて来た」のであり、さらに「こうした血脈があったればこそ、人間空海の重層的な性格の曼荼羅構造が生まれたとも言えるのではないだろうか。」と結ばれている。まことに興味深い指摘である。

    『続日本紀』に「承和二年三月庚午(二十五日)、(略)法師(空海)者、年十五、就舅従五位下阿刀宿禰大足讀習文書」と、また『三教指帰』の序文に「余年志學、就外氏阿二千石文學舅、伏膺鑚仰」と書かれているように、少年真魚にとってはこの母方の伯父、阿刀宿禰大足が、最初の学業の師であった。先に述べた阿野郡鴨部郷に領地を持っており、その近辺にその住まいがあったものと思われる。おそらく就学前の真魚も、善通寺のあたりから幾度もそこに通い、あるいは滞在し、この伯父から「文書を読み習った」のであろう。『文鏡秘府論』に「貧道幼就表舅、頗學藻麗、長入西秦、粗聴餘論、雖然志篤禅黙不屑此事」とあるのが、この頃のことと思われる。 

    ここからは幻想あるいは妄想である。もしくは筆者の創作だと思って頂いてもよい。この辺りに阿刀氏の広大な屋敷があり、少年真魚が伯父阿刀大足から学業を学ぶために滞在していた。生家のある多度郡の辺りの山々を、すでに幼年の時から駆け回っていた真魚にとって、山野は親しい友であった。北を眺めれば白峯山、南には五夜嶽、烏帽子山が連なっていた。国府までの行き帰りを、真魚は平坦な道だけではなく、時にはこの山の尾根伝いに歩くこともあった。烏帽子山を降りて少し西南に下るとそこはもう国府であった。

    その途中の道には沢山の巨石の群れがあった。そのなかでも殊に大きな石が目を引いた。磐座であった。時にはその磐座の上で異様な風体の男に遭遇することもあった。一人の優婆塞が一心不乱に天神地祇を祀っていたのだ。昼でもなお薄暗い森の奥の光景は、少年の心の奥底に言い知れぬ謎を植え付けた。そのあたりは神楽谷と呼ばれていた。谷を流れる川は讃岐岩の硬く黒い肌から湧き出でていた。その磐を叩くと、あたりの森や谷に音が広がり、遠くまで透明な響きが広がった。

            

    白峯山から五色台(国分台)にかけては日本でも有数の讃岐岩(安山岩=サヌカイト)の産地である。神谷神社の境内の裏の森のなかの石の群れや、由緒書に記載されている「影向石」と呼ばれる磐座も、サヌカイトの一種であったのであろう。

     ひとりの人間の十五歳前後の頃の心や精神の在り様は、おそらく一生に通じるものがあるのではないだろうか。最も感じ易く、最も柔らかな魂の所在。限りなく可能性を秘め、限りなく感受性に富み、けれど同時に限りなく脆く傷つき易い、孵化して間もない雛のような心の苫屋。この頃の、眼で見て、耳で聴き、五感で触れたすべてのものが、サヌカイトの音のように心の奥底、魂の深遠にまで響き渡っていたことに、少年真魚が気づくまでには、まだかなりの歳月が必要なのであった。

    「風の起こる処」第2章 幼年時代

    • 2012.09.27 Thursday
    • 23:19
    第二章 幼年時代

     空海はその生涯に、膨大な数量の著作を遺している。この小論を試みるにあたって、私が最も注目したのは『即身成仏義』のなかにある次の頌であった。

     六大無碍にして常に瑜伽なり  体
     四種曼荼各離れず      相
     三密加持すれは速疾に顕はる  用
     重重帝網なるを即身と名づく 無碍
     法然に薩般若を具足して
     心数心王刹塵に過ぎたり
     各五智無際智を具す
     円鏡力の故に実覚智なり    成仏

    序章の付記で述べたように、この深く険しい山に分け入ろうとすれば、登山経験のまったくない素人の私が、いきなり頂上にとりつくわけにはいかない。ハーケンを投げても、空しく谷間に落下するか、万が一、幸運に頂上近くの岩に届いたとしても、ロープを上る途中で墜落するのが落ちである。しかもかつての拙論「空海」や、この拙論の序章に、懇切丁寧に御批評、御指導下さった故村岡空師も、今は彼岸に旅立ってしまわれた。私が出来ることはただ麓の道から足だけを頼りに歩いて上ることしかないのである。それは即ち、空海の生涯を時代に沿って追ってゆくという方法である。空海もまた、いきなり「即身成仏」の世界に到達したわけではあるまい。その方法として、もっとも基本的な事は、彼の著述を時代に沿って追ってゆくことであろう。しかしそれだけではあまりにも実感が乏しいような気がするので、彼の足跡を辿りながら実際にゆかりの土地を訪れ、当地の風に吹かれ、光を浴びながら、現在の風景を眺め、感じたことを感じたままに述べてゆきたいと思う。そのことが延いては現在に至るまでなお生き続けている、弘法大師としての空海の姿をも、浮き彫りにしてゆけるのではないかと思う。
     序章で十三仏の真言について触れたが、(十三仏以外にも多くの菩薩、如来、明王などがあるが)どの仏に魅かれるかによって、そのひとの心(精神、魂=仏教ではこれらの言葉の持つ意味は多少異なるようであるが、ここでは狭義ではなく広義で捉えたい。)のありようが垣間見られる。言うなればその仏は、そのひとの心(精神、魂)の象徴である。以前にも述べたように、空海の生涯を眺めると、彼にとって大きな意味を持つ仏は、虚空蔵菩薩、大日如来、不動尊、弥勒菩薩の四仏であると思われる。この虚空蔵から弥勒へと至る彼の精神の軌跡を辿ることこそが、その思想、哲学の深まりや広がりを知ることになるのではないだろうか。それはまた、彼がいかに密教の真髄を自らの血肉としていったかという軌跡でもある。そしてその過程において、私がこの小論にとりかかる最初の動機であった「六大」と「識」についての疑問も、次第に明らかになってくるのではないかと思う。

     本論に取り掛かる前に少し当時の歴史的背景と思想を眺めておきたい。
     七七〇(宝亀元)年、称徳天皇崩御の後、光仁天皇(天智天皇の孫白壁王)が即位するが、皇位をめぐる不安定な状況と律令体制建て直しをめぐる政治的確執が続く。翌七七三(宝亀四)年、光仁天皇皇子で天武系の血を受けない中務四品の山部親王(のちの桓武天皇)が皇太子となる。七八一(天応元)年四月、譲位によって皇太子山部親王が即位し、桓武朝がはじまる。しかし未だに皇位をめぐる天智・天武系の相剋と対立が続き、政情は安定したものではなかった。王権の確立・安定を図るために、桓武天皇は遷都を決意し、七八四(延暦三)年五月から調査を開始し、同年十一月には早々に山背国乙訓郡の長岡村に造営された長岡宮に移幸し、遷都が断行される。この長岡京造営を支えたのは畿内・山背の有力な渡来系氏族の経済力であった。
     しかし七八五(延暦四)年九月、長岡京造営の中心となっていた藤原種継が射殺されたことを契機とし、皇太弟早良親王を擁立する反桓武・反藤原式家・反遷都の勢力が築かれていった。十月、桓武天皇は弟の早良を廃太子し、自らの子である安殿親王を立太子させる。早良親王は乙訓寺に幽閉され、自ら絶食して遂に餓死に及ぶが、その亡骸までも淡路に流されて葬られたのである。造都・造営は継続されたが、七八九〜七九〇(延暦八〜九)年にかけて皇太后、皇后が相次いで崩じ、皇太子の健康も不安定となっただけでなく、京畿の災害がうち続き、疾疫や諸国の不作とあわせて、桓武天皇の身辺に早良親王の怨霊の影がつきまとう状況となってゆく。
     七九三(延暦十二)年正月、桓武天皇は山背国筈■野郡宇太村に視察の使を派遣し、翌二月以降、諸神への遷都の奉告や新京巡覧を矢継ぎ早に行っている。翌七九四(延暦十三)年十月二十八日、終に桓武天皇は新京に行幸し遷都の詔を宣し、山背を山城国と改め、新しい都を平安京と号したのである。しかし遷都の過程においても安殿皇太子妃をはじめ多くの死者を出した宮中、京畿の地震など怨霊の仕業をうかがわせる不幸な出来事が続いていた。
     桓武天皇に相次ぐ遷都を断行させたもう一つの理由として平城京における根強い仏教勢力の排除があげられる。奈良中・後期においては南都仏教は内容的には学派のような存在であり、未だに正統教学が完成されてはいなかった。しかし平安遷都前後、南都においては法相・三論二宗の勢力が他を圧して増大し、争いが絶えなかった。これに対して桓武朝は仏教界秩序厳格化を図り、政治的な調停介入を行った。この頃には諸宗学の整備はほぼ完了し、正統教学が確立したが、それゆえに固定化し、生命力を失っていった。同時にこれらの南都諸宗学においては、宗教的思想の中心となる、いかに悟れるか、救われるかという救済論の面は弱かったと言わざるを得ない。
     七八五(延暦四)年、最澄は東大寺で受戒し、その年の内に南都を離れ、比叡山での厳しい修行生活に入る。空海もまた、先に述べたように謎につつまれたまま、山林秘境での修行を積んでいた時期である。彼らはともに学問の場である南都を離れ、修行実践を重んじた独自の道へと歩み始めたのであった。南都仏教の影響からの脱却を図り、平安新都にふさわしい護国仏教を求める桓武以降の朝廷と、彼らによる新仏教とが結びつくまでには、未だかなりの時を待たねばならない。

     さて前置きが長くなったが、ここからがいよいよ本論である。
     佐伯直真魚(空海の幼名・以後真魚と書く。一般には「まお」と読まれているが、「まうお」「まいお」とも読む。)は讚岐國多度郡引田屏風浦に生まれた。その日は七七四(寶龜五)年甲寅六月十五日と言われている。(〔贈大僧正空海和上傳記〕〔弘法大師行化記〕〔大師御行状記〕〔高野大師御廣傳〕〔塵添?嚢鈔〕〔真俗雑記〕他)但し鎌倉時代中期以前の伝記には誕生日の記載が全く無いという。
     善通寺は真魚が生まれた場所、父佐伯直田公の屋敷跡にその別名善通にちなんで建立された。現在新暦の六月十五日に御誕生会が行われているが、〔神皇正統記〕に「唐の大暦」と書かれているのを見ると、旧暦であるとも考えられる。(今年で言えば新暦の七月二十八日)いずれにせよ、この日付は唐の高僧不空三蔵の入滅した日であり、空海がその生まれ変わりであるとも言われている。

     ずっと以前から真魚が生まれた頃に善通寺に行ってみたいと思っていたが、本年(二〇〇七年)七月五日、ようやくそれが現実になった。
     空海の最初の著作である『聾瞽指帰』に「豫樟蔽日之浦」と書かれているように、境内には夥しい樟の大樹が生い茂っている。中でも「大楠」「五社明神大楠」と名づけられたものは殊の外大きく、注連縄が張られている。 東院の端に龍王社が祀られていて、池の一面は藻で蔽われているが、そこにも古い樟の樹があった。風が吹くとさわさわと葉擦れの音がする。真魚が生まれた季節はこの樟の樹が一番美しい時である。龍王社の周りの池の畔をしばらく散策する。木洩れ陽が揺れ、池の表をびっしりと蔽いつくす藻の間にも、樟の樹の春の落葉が落ちていた。広い境内を歩いている時には感じられなかったが、ここでは往時の暮らしの一端を想像することが出来る。葉擦れの音がする度に、真魚が生まれた時の屋敷内の女たちの喜びのさざめきを聞くようだ。


     私事であるが、私もまた樟の樹には深い思い入れがある。父が五月に胃癌の手術を受けて、余命半年から一年、と宣言された頃、(本人にはずっと隠し通していたのだが。)彼が一番望んだことが自宅の庭にある樟の大樹の若葉を見たいということだった。結局バイパス手術だけを行って、彼自身は完治したと思い、一旦自宅には戻れたものの、医者も驚くほどのスピードで病状は進み、七月にはもう帰らぬ人となった。それ故に樟の樹は「生命」を考える樹でもある。

     脱線ついでにもう一つ、今回、御影堂をお参りして「戒壇めぐり」というものを経験した。お堂の横の階段を下りると暖簾のようなものが掛かっていて、その手前で、「ここから先は真っ暗になるので、左側の壁を伝ってゆっくり歩いて行って下さい。」と説明される。布を分けて中へ入ると確かに本当に真っ暗闇である。恐る恐るゆっくりと進む。曲がり角を何度か通り、ようやく眼前にうっすらと光が見えてくる。意外だったのは真っ暗闇のときよりも、光が見えてからの方が、足許が覚束なくなることだった。
     やがてぼんやりと光が漏れて来る小部屋に辿り着く。前方に大日如来が安置され、お灯明が点されている。その前に坐ると、自動的に音声が流されるようになっている。どうやら弘法大師空海の音声を合成されたものらしい。「ここに来たこと、そのこと自体が仏縁が深いということなのだ。」という。けれど私の心のどこかで、「どこか違うぞ、これは空海の声であるはずがない。」という声がする。お説教を一通り聞き終わってまた、闇の通路へ戻る。入り口付近の光が漏れているところには、諸仏や天女の絵が描かれている。(後で説明書を見ると、この両側の壁には「曼荼羅」にある三十七仏が描かれ、足元には四国八十八ヶ所の砂が敷き詰められているそうである。)
     不思議なことに、あの小部屋に入る前は、全くの「無」の暗闇だったが、大日如来に一度出会ってからは、何故か闇の中にいても、仄々と温かさを感じるような気がして安心感がある。あの声のせいではないと思いながらも、どこかで「阿頼耶識」を刺激するものがあったのだろうか。

     善通寺を後にして、次に仏母院と海岸寺にも足を運ぶ。正式には善通寺が誕生所となっているが、江戸時代にはこの二箇所も空海の誕生した場所であるという異説が唱えられ、論争になったという。空海の生きた時代には、善通寺の辺りまで海が迫っていたということなので、そうなると勿論、現在のこの辺りは皆、海の底ということになるのだが・・・。それでも海岸寺の奥の院には産湯井があり、仏母院にも産湯塚や胞衣塚がある。
                       
     確かにこの奥之院は海岸寺から道を隔てて坂道をかなり登った所にあり、海の水際に建っていたのかもしれないと思われる節もある。今でもお産の時は婚家先から実家に帰ることが多いことを思うと、もしこの辺りが空海の母の実家の所在とすれば、当然そこが産屋であったということにも納得がいく。当時の論争の決着として、『御理解書』なるものが嵯峨御所より下り、「善通寺は、大師の父田公の邸宅地にて、海岸寺は母玉依の別荘といい、善通寺は父の本拠なるを以って降誕の所に相違なく、海岸寺は産屋の所に相違なし」(弘法大師全集首巻〕というものであったという。村岡空師はその著書の中で、「同じ香川県観音寺市伊吹島に近年までつづいた産屋制度の風習などから見て、空海は海辺の共同の産屋で生まれ、やがて、父の家のある善通寺に帰って生長した、と考えるのが至当ではないだろうか。」とも書かれている。〔和歌森太郎編著『弘法大師空海 密教と日本人』抄録〕
     伝承の検証は専門家に任せることにして、とりあえず往時の海の傍の屋敷の雰囲気を知りたくて、海辺へと歩く。海岸寺の裏へ出ると途端に潮の匂いがする。更に堤防を越え、波打ち際まで歩いてみる。此処彼処に波に打ち上げられた貝殻が散らばっている。子供の頃に浜辺で遊ぶ真魚の姿が脳裡に浮かぶ。「貴物」と呼ばれた(『御遺告』)という幸せな屈託のない笑顔である。った所にあり、海の水際に建っていたのかもしれないと思われる節もある。今でもお産の時は婚家先から実家に帰ることが多いことを思うと、もしこの辺りが空海の母の実家の所在とすれば、当然そこが産屋であったということにも納得がいく。
    当時の論争の決着として、『御理解書』なるものが嵯峨御所より下り、「善通寺は、大師の父田公の邸宅地にて、海岸寺は母玉依の別荘といい、善通寺は父の本拠なるを以って降誕の所に相違なく、海岸寺は産屋の所に相違なし」(弘法大師全集首巻〕というものであったという。村岡空師はその著書の中で、「同じ香川県観音寺市伊吹島に近年までつづいた産屋制度の風習などから見て、空海は海辺の共同の産屋で生まれ、やがて、父の家のある善通寺に帰って生長した、と考えるのが至当ではないだろうか。」とも書かれている。〔和歌森太郎編著『弘法大師空海 密教と日本人』抄録〕
     伝承の検証は専門家に任せることにして、とりあえず往時の海の傍の屋敷の雰囲気を知りたくて、海辺へと歩く。海岸寺の裏へ出ると途端に潮の匂いがする。更に堤防を越え、波打ち際まで歩いてみる。此処彼処に波に打ち上げられた貝殻が散らばっている。子供の頃に浜辺で遊ぶ真魚の姿が脳裡に浮かぶ。「貴物」と呼ばれた(『御遺告』)という幸せな屈託のない笑顔である。

     そこから海沿いをしばらく車で走って内陸部に戻り、弥谷寺へ向かう。参拝路の入り口の横の駐車場に一旦車を止めたが、時間のことを考えて、思い直してもう一度車に戻り、通常の参拝路の左側に造られている有料道路に入る。急な斜面を曲がりくねった道を上へ登ってゆくと、再び駐車場がある。そこに車を置き、百八段の階段を昇る。普段歩き慣れていない付けが回ってきて、一気に昇ることが出来ない。情けないが一段づつ数えて、半分の五十四段目で休むことにする。ここでも紫陽花が緑の中で美しさを増している。


     昇り切ったところに大師堂があって、階段を昇り、中へ入る。お堂の奥に少年真魚が勉強したと伝えられる「獅子窟」がある。ここにも何体かの仏像が祀られている。通路の硝子戸が開かれていて、洞窟がある崖そのものが見られるようになっている。
     今は深く高い山の上にあるが、少年真魚が生きていた頃、善通寺が海の側にあったと仮定すると、おそらく真魚は海にそそり立つ断崖の中に洞窟を発見し、ひんやりしたその空気の中で、瞑想したり書物を読んだりすることを好んだのであろう。海に面した崖であったからこそ、明星の明かりを灯火として学問に親しんだという獅子崖の窓を、明星の窓と呼ぶのも頷ける。彼の秘密の場所として存在したであろうその場所を、実際に目の辺りにして、これは伝説や伝承ではなく、事実であると思われてならなかった。

     次に向かったのは出釈迦寺である。略縁起には次のように書かれている。
     弘法大師が真魚といわれていた七歳の時、倭斯濃山の山頂に立ち、「自分は仏門に入って、多くの人々を 救いたい、この願いが叶うのなら、釈迦如来よ現れ給え。叶わぬのなら一命を捨てて、この身を諸仏に供養する」と衆生済度の願いをかけて断崖から身を投げた。その時、紫雲がたなびき釈迦如来が現れ天女が羽衣で抱き止め、釈迦如来が「一生成仏」の宣を授けた。そこで大師は本尊釈迦如来を刻み、麓に堂宇を建立して我拝師山・出釈迦寺と号して、釈迦如来の尊像を刻んで本尊とした。
     山の頂上には奥之院が建ち、その先に大師が身を投げた行場がある。その断崖を「捨身ヶ嶽禅定」と呼ぶ。約三百年前までは山頂の奥之院が札所となっていたが、一九二〇(大正九)年に麓に移されたという。本堂左手の短い石段を登った所に「奥之院遥拝所」があり、ここで念仏を唱えれば、「捨身ヶ嶽禅定」に登ったのと同じご利益が得られるという。登山道の入り口には頂上まで四〇分という木の札が掛けられていた。
     「遥拝所」から仰ぎ見ると、奥之院の建物が見え、緑の中に切り立った崖の茶色の肌もはっきりと見ることが出来る。何故か聖徳太子の「捨身飼虎の図」が思い出される。伝説や伝承に見られるのは、それ以前の歴史的偉人と重ね合わせて作られた物語である。「捨身」という言葉にはもちろん自ら生命を絶つこと、という意味もあるが、仏教の言葉では修行・報恩のために身を犠牲にすること、生命を捨てて三宝を供養したり、飢えた生物のために身を投げ出したりすること、の意味であり、王侯貴族が身を三宝の奴となし、財物を寺院に寄進する場合も捨身と呼んだという。
     神童と呼ばれた真魚がこの行場で修行をしたことは事実であろう。そして一生を御仏に捧げようと決意をしたのも真実であろうと思う。『御遺告』に「夫以吾昔得生在父母家時。生年五六之間夢常見。居坐八葉蓮花之中諸佛共語也。」(そもそも思い巡らしてみれば、私が昔生まれて、両親の家に住んでいたとき、五、六歳の頃、いつも八葉の蓮華の中に坐って、諸々の御仏たちと言葉を交わしている夢を見た。)とあるが、このような記述と偉人伝説が結びついて縁起となったものであろう。唐の高僧不空三蔵もそうであるが、真魚と聖徳太子との「符合」も随所に見出される。誕生の時からしてそうである。(〔鵝珠鈔〕〔八幡愚童訓〕)
     それにしても聖徳太子と四国の縁とはどのようなものなのだろう。太子は生前、親交のあった蘇我氏の領地讃岐の國をしばしば訪れていたと伝えられる。真魚が生まれた年を遡ること丸二百年、隋との国交を開き、鵜足津を遣隋使の寄港地として利用していたという。遣隋使が最初に派遣されたのは六〇〇(推古八)年のことだが、六一八(推古二六)年隋が滅亡し、唐が建った後は六三〇(舒明天皇二)年から遣唐使として引き継がれる。遣唐使についての詳しいことは後にまた述べるが、鵜足津(宇多津)は真魚の生まれた多度津からは目と鼻の先である。さまざまなエピソードを聞くこともあったであろうし、その船を目の当たりにしたこともあったかもしれない。少年真魚のきらきらと輝く瞳を思い浮かべながら、ここは一旦、現実に戻ることにしよう。

     時計を見ると既に午後四時半を過ぎていた。紫雲出山に登ることも考えていたが、思い直して満濃池を見に行くことにする。空海の事蹟の上では満濃池の灌漑はまだずっと先のことなのだが、彼を包む自然の状況を知りたくて訪れることにする。
     更に内陸部へと車を走らせ、琴平を過ぎ、人家が少なくなってくると坂道になる。「まんのう池」と表示が出ているところを左折すると、そのまま道なりに高台に出て、駐車場まで迷うことなく進むことが出来る。池と反対側には満濃池の守り神といわれる神野神社の鳥居があり、狛犬がこちらを見下ろしている。すぐ前に満濃池が広がっている。静かで広い。展望台のベンチのところで一人の若い女性が一心不乱にヴァイオリンの練習をしていた。少し歩いて角度を変えて見ると、池は全く別の表情を見せる。池の畔に佇んでいるだけで、何故か心が安らぐ思いがする。

     まだ日が高かったので、未練がましくもう一度紫雲出山に向かう。ところがどこをどう間違えたのか、登山道へ入り損ねて、詫間湾に沿ってどこまでも走る羽目になってしまった。ようやく登山口に辿り着いた時には、既に日は山の端に沈もうとしていた。堪能しすぎるほど海を満喫したので、ここはあきらめて引き返すことにする。

     真魚はこのような自然の中で育ったのだ。輝く緑と溢れる水のなかで。海も山も彼にとって優しく大きい。ひとは自らのなかにどれだけ大自然を容れられるか、ということによってその大きさを量れるような気がする。その意味で彼の幼少年時代は、どこまでも明るく光に充ちている。それは彼が意識するとしないにかかわらず、大日如来の遍く照らす光明の下に生まれたということなのだろう。しかし真魚はまだ、自らがその同じ名前「遍照」と呼ばれる存在になるとは夢にも思っていない。                                    (続く)
      

    風の起こる処 第1章

    • 2012.09.08 Saturday
    • 00:06
     

    第一章 『大乗起信論』の哲学

     

     『大乗起信論』は古来、作者は馬鳴、訳者は真諦であるとする伝承が一般に伝えられている。馬鳴(Asvaghosaアシュヴァゴーシャ)は紀元後一〇〇〜一五〇年頃にインド仏教が生み出した最大の仏教詩人であるが、実際には馬鳴の名に仮託し、中国において撰述されたものであろうと言われている。真偽はともあれ、この書は大乗仏教の理論と実践の両面において、それ以前の経論の諸説を多角的にとり入れ、「大乗」そのものを総論的に簡潔に描き出そうとしたものであり、後世の仏教思想に多大な影響を与え続けた。

     井筒俊彦はこの『起信論』を宗教書としてではなく、「仏教哲学の著作として読みなおし、解体して、それの提出する哲学的問題を分析し、かつそこに含まれている哲学思想的可能性を主題的に追って」、「それの意識形而上学の構造を、新しい見地から構築」しようと試みている。したがって当然のことながら宗教書にありがちな思い入れや押しつけがましさが全くない。そして又、そのように「新しく読みなおし」た『起信論』を、彼が過去二十年に亙って試み続けて来た「東洋哲学全体に通底する共時論的構造の把握」のためのささやかな一歩であると位置づけている。

     翻って私自身に戻って言うならば、十年前から今に至るまで、なぜこれほど「密教」に魅かれ続けてきたのかということを解く一つの鍵を、この『起信論』を読むことによって見出し得たような気がする。

     

     『起信論』は「摩訶衍」(Mahayana「大乗」の音写語)を二種の観点から捉えようとする。その一つは「法」(大乗の教説によって明らかにされる真実、及びその真実を保持するもの)であり、もう一つは「義」である。ここでいう「法」とは「衆生心」であり、(論中、「衆生心」を「一心」あるいはたんに「心」ともいう。)「義」とは「衆生心」が「大乗」と言われる理由をさし、「体・相・用」の三種がある。さらに「衆生心」は「真如相」と「生滅因縁相」との両面を持つ。これらを「心真如門」「心生滅門」の二種の観点から考察してゆこうとする。

     〈真如〉とはサンスクリット語のcitta−tathataで「ものさながら」「あるがまま」を意味する語である。しかし「あるがまま」と言っても現実のありかたそのままという意味ではない。「絶対」「真(実在)」「道」「空」「無」あるいは「一者」。それらと同じように『起信論』は〈真如〉という「仮名」を選び取る。しかし一つ一つの言語は、その言語を選び取った時から、それ以外の言語とは微妙に異なってくる。それゆえに 『起信論』は〈真如〉はあくまでも「仮名」であると繰り返し主張する。

     それは「絶対無分節」であり、「無辺際、無区分、無差別な純粋空間の、ただ一面の皓蕩たる拡がり。」あるいは「渾沌」「上梵」。しかしそれらをそのようなものとして、「そのまま、把握することにおいては、言語は完全に無能無力である。」

     

     まるで詩と同じではないか、と私は思う。「いかに言語が無効であるとわかっていても、それをなんとか使って〈コトバ以前〉を言語的に定立し、この言詮不及の極限から翻って、言語の支配する全領域(=全存在世界)を射程に入れ、いわば頂点からどん底まで検索し、その全体を構造的に捉えなおすこと――そこにこそ形而上学の本旨が存する。そして『大乗起信論』は、まさにそれを試みようとする」ものであると井筒俊彦は位置づけている。私が詩を思い浮かべたように、空海は「真言」を想起したのではないかとふと思ったりするのだが、今はそのことには触れない。

     

     『起信論』の顕著な特徴として、思想の空間的構造化と、思惟の双面的・背反的、二岐分離的展開があげられる。前述したように〈真如〉は、「第一義的には、無限宇宙に充溢する存在エネルギー、存在発現力、の無分別・不可分の全一態であって、本源的には絶対の〈無〉であり〈空〉(非顕現)であるが、」「また逆に、〈真如〉以外には、世に一物も存在しない。〈真如〉は、およそ存在する事々物々、一切の事物の本体であって、乱動し流動して瞬時も止まぬ経験的存在者の全てがそのまま現象顕現する次元での〈真如〉でもあるのである。」「いわゆる〈無明〉(=妄念)的事態も、存在論的には〈真如〉そのものにほかならない。」

     

     心真如者、即是一法界、大総相、法門体。所謂心性 不生不滅。一切諸法唯依妄念而有差別、若離心念則無 一切境界之相。是故一切法、従本已来、離言説相、離名字相、離心縁相、畢竟 平等、無有変異、不可破壊、唯是一心。故名真如。

     

     また〈真如〉は「言語を超越し、一切の有意味的分節を拒否する」「離言」の面と、「言語に依拠し、無限の意味分節を許容する」「依言」の面とに二岐分開する。井筒俊彦はこれをプロティノスの説く「一者」の形而上学と比較し、〈真如〉は「存在と意識のゼロ・ポイントであるとともに、同時に、存在分節と意識の現象的自己顕現の原点、つまり世界現出の窮極の原点でもある。」と述べている。

     

     さてここで序章で述べた「識」に関する言葉を思い起こして頂きたい。『起信論』では「唯是一心、故名真如」と書かれているが、井筒俊彦はこの「心」を「意識」という語に移して論を進めている。ただしここでいう「意識」は、個々人の個別的な心理機構ではなく、超個人的・形而上学的意識一般、即ち(たとえばユング的集団無意識に見られるような)超個人的共同意識、または共通意識を想定して、それの主体を汎時空的規模に拡大し、全人類(=「一切衆生」)にまで拡げて考えたものである。 「衆生心」はこのような「超個的、全一的、全包容的、な意識フィールドの拡がり」、「一切衆生包摂的心」、即ち「あらゆる有情、または、あらゆる存在者を一つも余さず包摂するほどの限りない広袤をもつ覚知の全一的拡がりとしての意識」(=「心」)であるとともに、もう一方ではごく普通の日常的意識でもあり、この両者は「自己矛盾的関係で本体的に結ばれている」とされる。

     『起信論』では「心生滅」に言及するに至って〈阿梨耶識〉が登場する。

     

     心生滅者、依如来蔵故有生滅心。所謂、不生不滅与生滅和合非一非異、名為阿梨耶識。

     

    しかしここで言われる〈阿梨耶識〉は、唯識哲学の説くそれとは異なっている。唯識哲学では〈阿梨耶識〉は千態万様に変転する一切の現象的存在者の発起する源泉となる深層意識であるのに対し、『起信論』では一面においては常に揺れ動く生滅心であるが、それと同時に他面、不生不滅、永遠不動の絶対的「真心」である。

     言い換えれば唯識の〈阿梨耶識〉は「妄識」のみであるのに対し、『起信論』のそれは真(「心真如」)妄(「心生滅」)和合識なのである。井筒俊彦は次のように述べている。

     

     『起信論』的「アラヤ識」は、何よりも先ず、「真 如」の非現象態と現象態(=形而上的境位と形而下的 境位)とのあいだにあって、両者を繋ぐ中間帯として、 空間形象的に、構想される。「真如」が非現象的・「  無」的次元から、いままさに現象的・「有」的次元に 転換し、それ本来の寥廓たる「無」(=「本来無一物」 )の境位を離れて、これから百花繚乱たる経験的事物 事象(=意味分節体、存在分節体)の形に乱れ散ろう とする境位、それが『起信論』の説く「アラヤ識」だ。 非現象態(=「無」の境位)から現象態(=「有」の 境位)に展開し、また逆に現象的「有」から本源の非 現象的「無」に還帰しようとする「真如」は、必ずこ の中間地帯を通過しなければならぬ。〈中略〉

     従ってまた、我々が存在の現象態(=いわゆる経験 的世界)を、どう価値づけるか(=正とするか負とす るか)によって、「アラヤ識」の価値符号が正反対に なる。現象的事物の世界を、「真如」の本然性からの 逸脱、すなわち、全て我々の「妄念」の生み出した妄 象と見るなら、それの始点となった「アラヤ識」は負。 「真如」の自己分節の姿、と見るなら、「アラヤ識」 は正。

     

     〈阿梨耶識〉を境とし、形而上を「心真如」、形而下を「心生滅」という二重構造を持つ「一心」が「衆生心」なのであり、その本体は現象態における「妄心」の乱動のさなかにあっても源初の清浄性を失うことはない。この本体を『起信論』は「自性清浄心」と名づけている。そしてこの純粋な〈真如〉それ自体を、〈真如〉の本体の意味を持つ「体」の字に、優越しているという意味を持つ「大」の字を加えて「体大」と名づける。また現象態における〈真如〉が様々な属性を帯びて現われることを、本質的属性の意味を持つ「相」の字に「大」を加え、「相大」と呼び、さらに同じく現象態において、無量無辺の「功徳」(=存在現出の可能力)を帯びて存立する〈真如〉を〈如来蔵〉と名づけ、無限の働きを示すこの〈真如〉を「用大」と呼ぶ。「用」という字は、物の属性が外面に発動して示す根源的作用、あるいは機能を意味している。

     

     この現象世界は本質的に虚妄でありながら、〈如来蔵〉的観点から見ると、〈真如〉は一切の存在者の根底に伏在し、「一切事物の窮極原因として、それらの中に本体的に存立している」のである。全ては「真」であって虚妄ではない。また「妄心」によって〈真如〉をあるがままに把えることができないから「空」であると言うのであって、もし「妄心」から離れるならば「空」そのものも無い。

     

      所言空者、従本已来、一切染相応故。謂、離一切法差別之相、以無虚妄心念故。当知、真如自性非有相、非無相、非非有相、非非無相、非有無倶相、非一相、非異相、非非一相、非非異相、非一異倶相、乃至総説、依一切衆生以有妄心、念念分別皆不相応故。説為空。

      若離妄心、実無可空故。

     

     「〈心真如〉の本性そのものは常恒不変、不生不滅の「真心」であり、一点の虚妄性も無いが、そのかわり「真心」特有の玲瓏たる諸相(=「浄法」)を無尽蔵にそなえている。そしてそれらの「浄法」が、〈心真如〉の自己分節という形で、限りない現象的存在者として顕現してくる。このような〈心真如〉の側面を『起信論』では「不空」と名づけている。

     

     所言不空者、已顕法体空無妄故、即是真心、常恒不変浄法満足故名不空、亦無有相可取。以離念境界唯証 相応故。

     

    「限りない豊饒、存在充実の極。この側面における〈心真如〉は、一切の現象的事物事象を、あますところなく、形相的存在可能性において包蔵している。あらゆるものが、そこにある。〈中略〉全包摂的全一性において、一切が永遠不変、不動。」

     

     井筒俊彦の『起信論』哲学はさらにここから、「実存意識機能の内的メカニズム」と題して、「覚」と「不覚」、「始覚」と「本覚」、「熏習」と、「アラヤ識」の機能を解明してゆくのだが、この小論の目的は、あくまでも空海の思想における「六大」と「識」についての考察に主眼を置くつもりであるので、これ以上の深入りはしない。もし興味のある方は個々にお読み頂きたいと思う。その際、井筒俊彦の他の著書も是非にとお勧めしたい。(『東洋哲学』『意識と本質』など)

     

     最後になぜこのような寄り道をしたのかを述べておかねばならない。これまでさまざまなエッセイのなかで、幾度か書いてきたことではあるが、私はかねがね、ひとは皆、本性として、この世のあらゆるものを超えた存在を覚知できるものであると考えてきた。ひとつにはこの宇宙のすべてを見ることによって、そしてもうひとつは自己の内部に沈潜することによって。しかし不幸なことに現代では、このいずれもが歪められてしまっていて、それはかなり困難なことになってしまった。『大乗起信論』、ことに井筒『起信論』は、このような私の意識上、無意識下のどちらの思いをも大いに充たしてくれるものであった。それとともに、先にも述べたように、これらを読むことによって、なぜ「密教」と「空海」そのひとにこれほどまでに魅かれ続けてきたか、ということがほんの少し解ったような気がしたのである。

     それはまず〈阿梨耶識〉を「妄念」だけのものではなく〈真如〉をも含むものとして捉えていることであり、さらにこの現象界においてすら〈如来蔵〉として〈真如〉が存在するということである。井筒俊彦の言葉で言うならば、「〈真如〉の自己分節の姿、と見るなら、〈アラヤ識〉は正。」〈阿梨耶識〉も現象界もまさに「正」として見たいというのが私の考え方であり、生き方であったような気がする。それは私自身が「正しい」人間であるということでは決してない。むしろそれとは逆に、どんな悪でもなし得るのが人間存在であるし、私もまた例外ではない。それでもなお、「正」として見たい私自身が確かに存在するのだ。それは正邪の「正」ではなく、「肯定」それも「全肯定」という意味で。

     ついでに告白するならば、私が(形而上の世界で)空海に出会った時、現実(形而下)の世界では長男がちょうど十四才から十五才にかけての時で、連日四十度近い熱を出し、ほとんど中学校を欠席したあげく、結局高校進学をあきらめ、一年間どこにも属さずに過ごした時期だった。今思えば「否定」よりは「肯定」に魅かれるのは当然だったような気がする。ある意味で全く「自由」であったその時期、親子で話し合った最初のことは、「バスに乗り遅れても死なないね」ということだった。社会一般から外れることへの恐怖は、いったん外れてしまえばいかほどのことでもないということを、その言葉は端的に表している。後になって彼はその頃見た夕焼けを、「あんなきれいな夕焼けを見たのは本当に小さい頃から久しぶりだった」と語っている。

     『起信論』は〈無明〉のことを「忽然として妄念の生起すること」(「忽念念起、名為無明」)と述べているが、「繚乱と花ひらく」無明の世界(現象世界)の何と美しいことか。しかしそれはやはり〈真如〉ゆえなのであろう。そして空海の、即ち密教の世界は、明らかにすべてを「肯定」の立場に立って見るものであり、「大日如来」こそが、井筒『起信論』の言う「現象界の形而上的根基、即ち一切の現象的存在者の絶対窮極的原因としての〈心真如〉そのものであろう。

     『起信論』的に言うならば、〈如来蔵〉こそが無限に豊饒な存在生起の源泉。そしてその〈如来蔵〉に依る〈阿梨耶識〉は、宇宙の根源を内部に宿し、すべてが未分化のまま渾沌と滾る処。すべてがそこから生まれ、ある一点を境として絢爛と咲き乱れ、溢れ、充ち充ちる処。すべてのものが顕ち現れ、すべてのいのちが生起し、風が吹き起こる処。

     すべてが無であり、また有であり、ひとつひとつに分化しつつ、ただひとつの分かち得ない大いなるもの、〈真如〉。その大いなるものの沈黙から、すべての言葉の息吹は生まれる。

    風の起こる処 序章 その2

    • 2012.08.19 Sunday
    • 01:37
    (承前)
     JR京都駅から南西の方角を眺めると五重塔が見える。一般には東寺と呼ばれる教王護国寺である。弘法市で知られるこのお寺を最近訪れることがあった。ちょうど蓮池に何十本もの蓮花が咲く真夏日のことだった。境内ではその日も骨董市が開かれていた。市の風景を横目で見ながら講堂に入ると、そこには大日如来を中心として二十一躯の仏像からなる立体曼茶羅が置かれている。即ち五智如来、五菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天、である。このうち十五躯は平安時代前期を代表する我が国最初の密教像と言われている。弘仁十四年(八二三年)、嵯峨天皇から空海に下賜されたこの寺は元の場所に現存し、今に至るまで空海の思想を顕現し続けている。
     空海が五大明王に関心を持っていたことは『仁王経五方諸尊図』を請来したことからも明らかであるし、大覚寺において空海が住したと言われる五覚院の本尊は五大明王像であり、とりわけ不動明王に対する信心には深いものがあったと思われる。東寺の御影堂に秘仏として残る不動明王像は空海の持仏と伝えられるし、高野山南院の波切不動は、寺伝によれば、空海が師恵果から霊木を授けられ自刻したもので、帰路暴風雨にあった時、波を切る姿を現じて無事帰国することを得たと伝えられている。
     この五大明王は内外の魔障を降伏するために至現した五仏の教令輪身(済度し難い衆生に対し忿怒の姿で現れ仏道に導く)で人間の九識のあらわれであるという。即ち不動明王の頭上の蓮華は第九識を、降三世明王の八臂は八識を、軍茶利明王の身体にまとっている蛇は第七識を、大威徳明王の六面六臂は第六識を、金剛夜叉明王の五眼は前五識を表すとされる。 

     空海の一生を眺めると幾つかのエポックがあり、それぞれの時期に大きな影響を与えたと見られる御仏や経論・書物がある。空海の伝記に属することは既に小論を書いたこともありここでは詳しく述べないが、青年期の空海にとって重大な二つの御仏は大日如来と虚空蔵菩薩であったと思われる。大和国高市郡久米寺の東塔下において空海は大日経を発見する。このことが彼のその後の人生を決定づけたと言っても過言ではない。既にそれ以前に彼は南都の寺々、ことに東大寺において学解の宗教を独習し、又この時期の有力な学僧であった勤操から格別な庇護を受け、各地の諸寺を歩き、万巻の経典を読んでいた。それでもなお彼は、華厳経を頂点とする従来の仏教思想に飽き足らないものを感じていたに違いない。同時期に山林を巡り雑密に出会い、「虚空蔵求聞持法」も修得している。
     『三教指帰』はこの時期の空海の姿を彷彿させるが、空海自身とも思われる「仮名乞児」は、ひとは「天にあこがれる以外に生きる方法はない」と断言している。大学を飛び出してから入唐までの謎につつまれた時期に、彼は放浪しつつ求め続けていたに違いない。「ひとは何か」ということの、そしてひとにとって真実の充足とは一体何なのかということの答を。
     やがてそれがひとつの経験に結びつく。
     「或■土佐室生門崎寂暫。心觀明星入口。虚空蔵光明 照来顯菩薩之威現佛法之無二。」(『御遺告』
    (あるいは土佐の室戸岬で暫く心静かに留まっていた心のなかで虚空蔵菩薩を観想していると、明星が口に入った。虚空蔵菩薩の光明の輝きは、菩薩の威力を顕現し、仏の教えのかけがえのないことを示した。)
     おそらくどんなに学問を究めても、どれほど処世の術に長けていても、ひとはそれだけでは充たされない。空海は大学明経科を飛び出した時に、そのことを嫌というほど感じていたであろう。空虚さをも感じていたであろう。ならばその空虚さを埋めるものとは一体何なのか。山林の中をさまよって生活し、雑密に出会い、ひとは宇宙との合一を実感したときにはじめて、真実の充足を得られるということを、彼は肌で感じはじめていたに違いない。それとともにひとはその宇宙を内部にも持っている。そのことにいかにめざめるか。そして外なる宇宙と内なる宇宙をいかに呼応させるか。
     「虚空蔵菩薩というのは天地一切の現象であり、ひとがその現象の玄妙さに驚嘆を感じたとき、たれの前にでもこの菩薩は姿をあらわす」という。
     空海はたしかにこの宇宙の只中で生きていると感じ、時にはこの宇宙の息吹きのなかで合一感を感じたであろう。その時彼は虚空蔵菩薩を見た、あるいは見たと感じたに違いない。そして大日経に出会った時、さらにそれを超えて、天地一切の現象のみならず、ひとの心のありようをも含む仏の智恵に触れたのである。彼の直感は大日如来の秘密荘厳に既に到達していたに違いない。しかしそれを偶然や稀有のこととしてではなく、いかに平常心として保ち得るか。大日経に書かれている実修的な部分は、彼にとって全く未知の事柄であり、我が国では学ぶべくもない。これは何が何でも唐に行かずばなるまい。彼がそう考えたのは当然のことであろう。
     私はかつてカトリックの信仰の前に佇み、どうしても信じ切れなかった頃のことを思い出す。私は宇宙のすべての「創造主」を信じることは出来た。しかし人であって神であるというキリストの「神格」をいかにして認めるかというところで立ち止まってしまったのである。そして又、無限の存在を有限の存在が愛することが出来るのかという問いの前で、さらにその疑問は増幅した。それから何年間か納得できないまま求め続けていた頃、これまで全く理解できなかった「聖霊」の存在が、払暁のように心の闇に入って来た。そのような私自身の貧しい経験を思い重ねると、入唐時の空海は漠然と大日経と大日如来について知りたいという希求は持っていたにせよ、「密教」そのものをすべて、などというはっきりした輪郭を持っていたのではなかったような気がする。
     空海は前述したように「天にあこがれる以外に生きる方法はない」人間だった。これは言い換えれば本来宗教的体質を持つ人間であるということである。そして彼は無意識のうちに自分の思想にぴったり合うものを探していたに違いない。長安の都で西明寺を宿舎として半年近くの歳月の間、彼は考えていたのかもしれない。青龍寺の恵果こそが密一条の伝法を授ける唯一の高僧であるという。しかし果たして本当にそのひとが自分の求めるひとなのか。その教えが自分の求めているものなのか。
     その逡巡を吹き飛ばしたのはおそらく恵果が病んでいるという事実であったろう。これ以上時を遅らせて恵果に会う機会を永遠に失ってしまうようなことがあれば、何のためにはるばる海を越え長安にやって来たのかわからなくなってしまう。とにかく会いに行こう。今、この時しかないのだ。
     真に宗教に帰依したものの直感は、深く宗教的体質を持ち、迸るように真実を求める人間を見分けるのであろう。恵果はこの異国の青年を一目見るなり、これまでに会った誰よりも密教の真髄を理解し得る人物であると思ったようである。
     「和尚乍見含笑歡告曰。我先知汝来相待久矣。今日相見大好大好。報命欲竭無人付法。必須速辧香花入灌頂壇」『御請来目録』)
    (和尚はたちまちご覧になるや、笑みを含んで喜びに満ち溢れて言われた。私は前からあなたが来るのを知っていて、ずっと待っていた。今日お互いに会うことが出来て本当に良かった。本当に嬉しいことだ。御仏から授かった私の生命はもう尽きようとしているのに、法を授けて伝えさせる人が未だいない。すぐに香花を支度して灌頂壇に入るがいい。)

     恵果も密教も空海を裏切らなかった。空海はこの年八〇五年、六月に胎蔵界の、七月に金剛界の、さらに八月十日には伝法阿闍梨位の灌頂を受ける。空海三十二歳の時であった。ここから彼の宗教者としての生涯がはじまる。

     翌八〇六年帰国した空海は、十月二十二日の日付で『御請来目録』を遣唐判官高階遠成に託して上奏を願っているものの、翌年初秋まで一年近く筑紫に残留している。この時期に彼はこれまでの彼自身の思想と恵果から法灯伝授された密教との整合を果たしたのであろうと思われる。彼はその思想をひとつの体系としてまとめるために、正式な密教の経論だけでなく多くの大乗経論をも援用した。そのひとつに『大乗起信論』とその註釈書である『釈摩訶衍論』がある。古来より偽撰とされているものの、空海は顕密の教判や十住心の教判においてもこの論書から引用していることは明らかであるし、さらに四種心の思想にも影響を与えている。

     私は「識」を知るためにいささかの書物を乱読したのだが、その中で特に魅かれた一冊の書物を告白しておきたい。『意識の形而上学』というのがその題名で、―『大乗起信論』の哲学―とサブタイトルが付けられている。この本が上梓された時、すでに著者、井筒俊彦は彼岸に去っていた。井筒俊彦はイスラム思想の研究において有名であるが、東洋思想についても幾冊かの著作を遺している。私はその著作に触れて、現代においてこれほど深く、しかも自由に東洋思想を論じた人は一人も存在しなかったのではないかと感嘆した。その気宇の壮大さ、縦横無尽の思想の広がり、膨大な資料をもとに論を立て推し進める緻密さ、それは天才とも言え、空海につながるところも多いのだが、ただひとつ大きな違いがある。それは井筒俊彦が言語学者であり哲学者であったのに対し、空海は宗教者であったということである。その違いを指摘するのは後にして、ここではしばらくの間、井筒俊彦の『起信論』哲学に耳を傾けてみたい。


     付記

     一九八七年の夏、私はふとしたことから出会った「絶対有」という言葉に魅かれて、「密教」なるものを知りたいと思った。「知りたい」と思うことは私にとって「読む」こと、そして「書く」ことにつながるのだが、『理趣経』『大日経』『大日経疏』と読み進むにつれて、さらに空海そのひとを知りたいと思うようになった。その結果生まれたのが、「季」五十一号から五十六号まで一年半に渉って書き続けた拙論「空海」であった。この日本史上(否、世界史上と言ってもいい。)稀に見る天才を偉大な山にたとえるならば、その時書いた拙論は麓に佇みその山を見上げただけのようなものだった。この十年間、私はその山のまわりをひたすら歩き続けていた。 しかし今再び空海の思想をさらに知りたいと思い、無謀にもこの山に分け入りたいと考えるようになった。最近、井筒俊彦氏の東洋哲学に関する著作を読み、さらにその思いを深くした。というのは井筒氏は「華厳」までの哲学には詳細に言及されておられるが、密教にはいまだ深く踏み込んではおられなかったからである。このやはり天才とも言える碩学に、なぜもっと時間が残されていなかったのかと無念の思いで一杯であるが、(そうすれば井筒氏のお力を借りて居ながらにしてこの偉大な山を俯瞰することが出来たであろうに。)それゆえにこそ覚束ない足取りでも自力でこの山に踏み込まねばと考えるようになったのかもしれない。おそらく生きている間に頂上に辿りつくことなど決してあるまいと思われるが、どの道に踏み迷うか知れないままに、時には見知らぬ花や小鳥に出会えるかもしれないという期待もある。この小論を書き始める所以である。

    風の起こる処 序章 その1            

    • 2012.08.16 Thursday
    • 22:44
     私が編集・発行している「惟(ゆい)」という雑誌に連載している空海を巡る旅の随想を連載しています。かなり長くて、いつ完成するかわからないものですが、少しずつこのブログにも転載していこうと思います。序章は論文のようで少し難しいので、読み飛ばして下さっても構いません。第1章からは紀行のような体裁で書いています。


    序章

     枝垂桜が最期の花びらを落としてからひと月余りが経ち、緑の葉は房状に広がり樹蔭を生み出し、その隣で三百年の樹齢を持つ黐の木は、黄に染まった春の落葉を降らせている。空を覆う高い梢では小鳥が啼いている。開け放した扉から風が黄葉を運んで来る。風が吹いている。風が緑を揺らしている。

     一九九七年三月、私はタヒチに住んでいる友人の案内で、パペーテから車で三十分位のパペアリという村にあるミュゼ・ゴーギャン(ゴーギャン美術館)を訪れた。ゴーギャンの絵は二、三枚しかなかったが、彼自身の手で作られた木のスプーンや、扉の回りを飾る木彫りの装飾が残されていた。そこには次のような文字が刻まれていた。

    Soyez amoureuses et soyez myst rieuses,Vous serez heureuses.
     (愛すれば、神秘であれば幸せになれる。)

    なぜゴーギャンはこんなにも離れた南太平洋の島に、はるばるパリからやって来たのだろうか。現在でもタヒチからパリへ行くには、空路で二十二時間もかかるのだ。その当時、飛行機などあるべくもない。アフリカまで陸づたいに南下し、そこから船で何か月もかかって続けられる旅、無事に辿り着けるかどうかさえも危ぶまれる旅であった。それでもなお彼はタヒチに渡り、しかも一度ならず再度、そして最後にはタヒチよりもさらに未開の島であるマルケサスでその生涯を終えている。彼は何故このポリネシアの島々にこれほどまでに魅かれたのか。彼の刻んだ言葉のなかにある「神秘」とは何なのか。
     私はミュゼ・ゴーギャンの建物の中を、あるいは建物から建物へと渡る舗道を歩きながら考えていた。けれど何ひとつ答は得られなかった。ただその間ずっと、さわさわと椰子の葉ずれの音がしていた。その時私はふと思ったのだ。そうだ、彼はこの風の音を聞いてしまったのだと。
     ちょうど一年前、私はパリに一週間ほど滞在したのだが、パリではこのような風の音を聞くことは決してなかった。しかしこのポリネシアの島々ではいつも風の音がしていた。タヒチでも、ボラボラでも、フアヒネでも。その上絶えまない波の音が聞こえた。タヒチからボラボラに渡った日の夜、波打ち際のすぐそばに建てられたバンガローで眠ることになり、一晩中打ち寄せる波の音で眠れない夜を経験した。夜半、突然のスコールが襲い、椰子の葉で編まれた屋根の隙間が、雷が光る度に星空のように光った。

     日本に帰って来てからも、私はずっと考え続けていた。あの島々が都会と違う第一の理由は風の音がすることだった。これまで生きて来た歳月のなかで、私は幾度風の音を聞いてきただろうか。私にとって風の音とは一体何なのだろうか。もしかするとそれこそがゴーギャンの言う「神秘」につながることなのではないだろうか。

     話は全く変わるがここ数年来、私は密教に魅かれ、多くの密教の書物を読んできた。そして幾つかの「真言」を覚え、今では中学に入って以来ずっと唱え続けていた「就寝前の祈り」の後に「十三仏」の真言と「光明真言」を付け加えるようになってしまった。(もちろんこれは全く自分勝手なやり方で、本来のあり方からはかけ離れていることだろうし、多分どちらの宗教からもお叱りを受けるかもしれない。)
     その「十三仏」の真言のなかで、大日如来だけが金剛界と胎蔵の二つの真言を唱えることになっている。その後者の真言が「アビラウンケン」であるが、これは大日如来の報身を表わす。大日如来には三つの仏身があるとされるのだが、この報身は法身と應身の間に立てられる。應身が生身を名づけたものに対し、法身とは「六大」を名づけたものである。普通一般に「五大」というのはよく言われるが、密教だけが「六大」を言い、「地水火風空」に「識」を加えたものである。

     風のことを考え続けてきて、私はまず「五大」のうちの「風」を思った。そう言えばタヒチでの一夜、私たちを招いてくれた友人の婚約者であるベルギー人の青年と、彼女の日本語のクラスの生徒である中国人の男性との三人で「五大」の話をしたのだった。そして帰国して後、真言について書かれた書物を読んでいて、「六大」に出会ったのである。風を追いかけてきて出会ったこの「六大」について、とりわけ「識」について知りたくなり、しばらくの間、その周辺を私なりにさまよってみたいと思うようになった。それが私にとって「風」とは何か、という答につながるのではないかという予感を覚えながら。

     まず「識」のつく言葉を『広辞苑』のなかから拾い出してみる。知識、認識、意識、……。色・声・香・味・触・法の六境を知覚する眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、の五識と意識の総称である「六識」。意識とともに内面的経験である第七識の末那識と、阿頼耶識を付け加えた「八識」。さらにその上に菴摩羅識を加えた「九識」。第七識の末那識は第六識が睡眠・失神などにより断絶するのに対し、生きている限り常に持続し、自我を統一する自己意識であり、仏教ではこの意識を根源として無明・煩悩が発生すると説かれる。第八識の阿頼耶識は蔵識、無没識とも言われ、経験を蓄積して個性を形成し、またすべての心的活動の根源となるところの精神的基底であり、自己意識のよりどころとなると考えられる。最後の九識である菴摩羅識は、第八識の阿頼耶識の本体で、真如の理体(万物の本体、理性)である。
     さてこれらの言葉をいったん脳裡の隅において、「六大」と「識」について密教ではどのように考えられているのかを探ってゆきたいと思う。

    鎮魂の火

    • 2011.01.17 Monday
    • 04:21
    JUGEMテーマ:地域/ローカル 
               nishinotakigoma.jpg  
     今年ももうすぐその時がやって来ます。 阪神淡路大震災から16年の歳月が経ちました。でもあの時のことを思い、亡くなられた方を思うと、今でも涙が出ます。
     小豆島西の瀧の龍水寺では、小林龍應師による護摩供が、あの大地震が起こったその時間に捧げられます。上の写真は昨年の護摩供に参列して、許可を頂いて撮影したものです。今年は参列できなかったので、せめて心を合わせて祈りたいと思っています。もしこのブログを見て下さっている方がいらっしゃるのならば、どうぞ一緒に亡くなった方のご冥福をお祈り下さい。

      詩集『風の芍薬(ピオニア)』のなかにも、大地震を契機にして作った詩があります。


    日溜まり


    白壁の土蔵がつづく
    路地の奥には
    忘れられた光が佇んでいる

    目には見えないひとりの幼児が
    その光のなかから駆け寄って来る

    澄んだ笑い声が
    空へと昇ってゆく

    日溜まりには
    失われた時と
    逝ったひとたちのおもいが
    漂っている

    忘れてはいけないからではなく
    忘れられないから
    私たちは 今も
    逝ったひとたちと共にいる

    死んだ人の方が
    近いのは なぜ
    そう思いながら
    生きている人の心を探す

    夢の切れ端が
    こんなにも重い

    記憶の海に沈んでいる
    流れていった虹
    水に溶けた絵

    永遠に喪われた時が
    私たちを浸している 
        
     

    室戸岬

    • 2010.04.20 Tuesday
    • 02:04
    JUGEMテーマ:旅行
      太龍寺のロープーウエイ山頂駅から、麓の鷲の里まで下りてきた時は、もう午後4時を過ぎていた。そこから国道55号線に戻り、再び南へひた走る。トンネルを抜け、日和佐、牟岐を経て、宍喰まで来ると後はずっと海辺の道である。いつの間にかもう雨は止んでいた。ふと見ると海岸の限られた範囲だけ白いものが見える。近くまで行くと海霧である。初めてみる光景だった。
     ホエールウォッチングが出来るという佐喜浜港、夫婦岩を横目で見て、地震研究所、海洋深層水研究所の建物を過ぎると、ようやく今夜の宿所であるホテル明星が見えてくる。すっかり暮れるまでに辿り着くことができてほっとする。車を降りるともう午後6時半を過ぎていた。

     翌4月13日の夜明け前、天気予報では曇りだったので、日の出を見られるかどうかわからないのだが、とりあえず5時半頃にホテルから5分ほどの御蔵洞(御厨人窟みくろどともいう)まで歩いていく。もっと暗いのかと思っていたが、思ったより明るい。白く大きな「青年大師像」の前を通り、少し行くと洞窟が見えてくる。その前にしばらく佇んでその時を待つ。
     ややあって暗い雲の中からほんの少し太陽が頭を覗かせる。友人と二人で思わず「出た!」と叫ぶ。
         
     しかしその2分後、太陽は再び厚く垂れこめた雲の中に入っていって、二度と姿を現そうとはしなかった。まだ朝明けは残っていたので、御蔵洞の中から見てみようと思い、洞窟の中へ入ろうとすると、驚いたことに一人の初老の男の人がそこにしゃがんでいた。「おはようございます。」と言いながらたじろいだ私たちに照れ臭そうに、「私はモデルなんですよ。」と声をかけてきた。                    さらに洞窟の中に入っていくと、何ともう一人、三脚を立ててカメラを構えている人が立っている。なるほど、だから「モデル」なんだな、とようやく納得する。私たちと入れ替わりに出て行くカメラマンが、すれ違う時に呟くように話しかけた。「何度来ていても、なかなか思うようには撮れないものですよ。」
     しばらく洞窟の中から朝明けを見た後、まだ朝食までには時間があったので、海沿いの遊歩道をしばらく歩くことにする。ビシャゴ巖、弘法大師行水の池、エボシ巖、あこう林。こんなに海に近く、岩だらけのところなのに、驚くほど豊かな植生があり、良い香りがする白い花まで咲いていた。(今は名前がわからない。写真を取ったので、調べてみようと思っている。)
     洞窟の中も岩の上からひっきりなしに水が滴り落ちていたが、どうやら海の傍にも真水の小さな池があるらしい。小さな生き物たちが溢れていた。ここは生命の宝庫なのだ。                                                                 
      一旦ホテルに戻り朝食の後、再び近くの駐車場に車を置き、遍路道を歩く。御蔵洞だけでなく、「一夜建立の岩屋」や「捩岩(ねじりいわ)」などの弘法大師ゆかりの聖跡が残っている。

     本当は全部遍路道を歩くべきなのだが、その日はまだかなりの移動をしなければならず、途中で引き返して、車で室戸スカイラインを上り、最御崎寺(ほつみさきじ)と室戸岬灯台に立ち寄る。この岬の突端に立つと、本当に地球は丸いのだと実感できる。
     灯台への道の傍らには菫や蒲公英が咲き、石の道には転々と紫の花びらが散っていた。見上げると野生の藤が満開だった。





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    ☆〔五大ごだい〕地・水・火・風・空の五つをいう。一切の物質に偏在して、それを構成するもととみて大という。 ☆〔六大ろくだい〕仏教用語で、万物を構成する六つの要素。地・水・火・風・空・識。六界。密教では法身大日如来の象徴とする。 ☆〔識しき〕仏教用語で、対象を識別する心のはたらき。感覚器官を媒介として対象を認識する。六識・八識などに分ける。 ☆〔法身ほっしん〕仏教用語で、永遠なる宇宙の理法そのものとしてとらえられた仏のあり方。

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