大阪日本橋の国立文楽劇場で行われた「第5回 山村若の会」を観に行った。
山村流の六世宗家山村若の舞による地歌『融(とおる)』と義太夫『仕丁(じちょう)』が、本年度の文化庁芸術祭参加作品となっている。二曲の間に宗家の二人の子息,山村侑と侃による地歌『石橋(しゃっきょう)』と、宗家の妹である山村光による上方唄『十二月(じゅうにつき)』が入る。
地歌『融』は能「融」から採られている。嵯峨天皇の皇子として生まれながら源姓を賜って臣籍に下った源融(みなもとのとおる)(822〜895)は、光源氏のモデルの一人とされている。
今回、山村若は「劇場から座敷へと移行していった山村流の特質を踏まえ、座敷舞に仕立て」て舞っている。それゆえに衣装を着けずに素踊で、紫の濃淡の着物と袴が清々しく、かつ幽玄な雰囲気が漂っている。金の扇が宗家の手にかかると、まるで扇自身が生きているかのごとく、自在に宙に舞い、また手に戻ってくる。何年か前に梅田芸術劇場での公演の時も、宗家の扇使いに感嘆し、魔法のようだと思ったことがあったが、今回はそのとき以上に自信と余裕が溢れていたように思った。
実は私は宗家に上方舞を教わっていて、弟子とも言えない不肖の弟子なのだが、以前この扇捌きのことをほんの少し伺ったことがある。「よくあんなことができますね。本当に魔法みたい。」などという失礼な質問をしたにもかかわらず、宗家は気さくに笑って答えて下さった。「扇の要は必ずまっすぐ下へ落ちてくるものだ。だから真っ直ぐ上に上げて、その真下で受けると必ず手に戻って来る。たとえ暗闇の中でも受け止めることが出来る。」その言葉は長年の鍛錬と修業の証しのように響いて来る。
二人の子息の『石橋』」は初々しく、また頼もしい。何もない舞台に何双かの大きさの違う白い屏風が重ねられ、象徴的な手法が感じられた。山村光の『十二月』はしなやかで美しく、この人の持つ天性の技倆と才能が輝いていた。
最後の演し物である義太夫 『仕丁』は、「天保6年、山村流の流祖・友五郎による振付の『同計略花芳野山(とばかりはなのよしのやま)』に後に入れ事として増補された劇中舞踊(景事)」である。「「仕丁」とは、別名「衛士(えじ)」といい、宮中の護衛や雑用に携わっていた者のことで、雛人形の十五人揃えの三上戸(泣き・笑い・怒り)の愛嬌ある姿は、幕末から明治にかけて庶民に雛人形が広まると共に、さかんに舞踊化された」という。
山村若はもはや舞踊家というより歌舞伎役者と言ってもいいような味わいと軽妙さで、この「仕丁」の所作を演じていた。
観る度にさらに大きく深く芸を究めてゆく山村若と、流派を継ぐ若い人たちの上方舞をこれからも注目してゆきたい。また表に出ることなく黙々と支えておられる宗家夫人に心から敬意を表したいと思う。