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- 2016.05.18 Wednesday
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ここでは他の演し物はさておき、中所宣夫演じる「松風」について述べたいと思う。まず演能に先立ち、舞台の真中に松と汐汲車が運ばれてくる。見所はその時からもう期待の心を持たざるを得ない。能舞台の松はまさに須磨の海辺の松である。実際に須磨の離宮道にある「松風村雨堂」の前には、ちょうどこの舞台の一の松、二の松、三の松のように、同じ位の丈の松が並んでいる。そこから見れば、今は遥か彼方に海が光って見えるが、往時はその辺りが海辺であったであろうと思われる。
ワキの旅僧が海辺の松を見つけ、浦人から松風、村雨という姉妹の旧跡だと聞き、二人を弔っていると日が暮れてしまう。その松林のなかを二人の海人乙女(姉妹)が歩いて来る。白い透き通った「水衣(みずごろも)」と呼ばれる美しい衣を身に纏っている。二人はかつて都から流されていた在原行平と共に暮らしていたのだった。月光のなかで姉妹は汐汲みをする。それぞれの桶に月が映る。「空の月は行平、桶に映った月は私たち。行平が帰って来たのだ。共に帰ろう。」と二人は汐汲車を曳いて小屋へ帰る。旅僧は一夜の宿を求め、二人が松風、村雨の霊だと知る。
行平と共に暮らした思い出を忘れられず、未だに中空をさまよっている二人。形見の烏帽子と狩衣を取り出し、見入っている間に姉の松風は恋しさが募ってゆく。このシテの松風を演じているのが中所宣夫なのだが、最初に登場した時にはほとんど村雨と区別がつかなかった。しかしこのあたりから驚くほど変わってゆく。
松風は行平の烏帽子と狩衣を手渡され、そのまま舞台中央まで来てしばらく松を見つめていて、思い余った風情で行平の形見の衣をほんの一瞬抱き直し、かき抱いたのだった。それまで長い「次第」のなかに閉じ込められていた空気が、その一瞬で変容した。松を見つめたその時に、中所は松風になり、松は行平に変じたのであろう。ここにはいる筈もない恋しい人を思う松風ができることは、行平を求めて虚空を抱くことしか出来なかったのであろう。
能「松風」は中入がなく一場なのだが、この後、松風が行平の衣を着けてからは後シテに変じて行くと言っても過言ではない。衣を着けただけではなく、驚いたことにこれまで表情がなかった面が、松風が舞ううちに、面ではなく一人の女の表情に変わっていった。ある時は艶やかに、ある時は泣いているかのように。そして眼を閉じれば松林を渡る風の音と、潮騒までもが聞えるようだった。
「あの松こそは行平よ、たとひ暫しは別かるるともまつとし聞かば帰り来んと」
松風は行平の言葉を胸底にしまい、命の果てまでも待ち続けたのである。
この切実なおもいを中所はいかに表現し得たのであろうか。偏に依代として松風の霊が舞台上で下りてくるのを待つ以外になかったのであろうか。公演が終わったのち、中所は体調が万全ではなかったと口にした。それでも見所の評判は最上のものだった。かく言う私自身も中所宣夫の「松風」は絶品だったと断言する。それは何よりも今回の中所の松風は、「松風」そのものだったという故である。見る者もまた、それ故にそれぞれの越し方を思い遣り、胸の裡に秘めた切なさを再体験するのである。この日、この時、この一瞬しかない演技に立ち会えたことを幸せに思う。
「能」というこの不可思議な芸能は、登場人物と演じる者とが一つになり、それを見る者もまた一つの円の如く一体化してこそ、はじめて完成されるものなのかもしれない。(敬称略)