- 2012.01.28 Saturday
- 04:59
もう1週間も経ってしまったが、2012年1月21日(土)、静岡音楽館AOIで行われた「山村流の地唄舞」を見に行った。
幕開きの祝儀曲≪八千代獅子≫から始まってすべてが山村若、山村光の二人の舞で、「上方舞」とは何か、ということが解るという贅沢な演し物である。
このホールは元々その名が示すように音楽を演奏するためのものであり、緞帳や幕はない。そのため上演時間になるとまず中央に金屏風が置かれ、脇にはそれより少し小ぶりな鳥の子屏風が置かれる。さらに囃子方の座る場所と、下手の舞手が登場する場所には毛氈が敷かれる。燭台が点されるといよいよ舞の舞台が始まる。
地唄舞≪八千代獅子≫は「獅子舞」を品よく座敷舞に取り入れ、小さな獅子を手に持って舞われるのだが、衣裳の白がめでたさを弥増しているように思われた。
華やかな舞台が終わると暗転となり、次は三絃と筝と唄だけの地唄≪狐の嫁入り≫。唄が終わるとまた暗転、そして山村若と光による地唄舞≪蛙(かわず)≫。動物などを面白おかしく歌い込んだ「滑稽物」「作物(さくもの)」と呼ばれる作品の一つである。歌舞伎にも見られるが、上方舞のこの「作物」の所作にも幾つかの動物の仕草や振りがある。「蛙」の特徴的なそれは、大きく広げられた手と、跳躍、鳴き声(台詞)であろう。山村若は見事に「蛙」の大きく広げられた手をかざし、最後に軽々と宙に舞って、高々と笑って舞い納めた。ここで幕合となる。
プログラムには≪ゆき≫の後に≪蛙≫となっていたが、当日順序が逆になった。最後の≪葵の上≫に繋げるためにも、この順序の変更は必然であったと思われる。
後半の舞台にもまず屏風が設えられる。燭台が点されると前半の金屏風は銀に代わり、それゆえに舞台も忽ちのうちに静寂に包まれる。やがて下手から山村光が現れる。あまりにも有名な地唄舞≪ゆき≫である。これまでにも幾度も≪ゆき≫をみたが、今回の音楽堂での舞は、「何もない」ことがかえってこの舞の本質を際立たせた。菊原光治の唄・三絃と菊萌文子の胡弓が、音楽堂ならではの響きで切々と心に沁みる。
私は何故か、かつて見た山村光の≪竹生島≫を思い出していた。それは私にとって「地唄」の凄さに開眼した舞台だったのだが…。今、眼の前で舞っている人が、かつてあの≪竹生島≫を舞っていた、凛とした潔い靭さを秘めた人だとは到底思えないほど、華奢で可憐な≪ゆき≫だった。
暗転。屏風が金に代わり、菊原光治、菊央雄司の唄・三絃による地唄≪浪花十二月≫。菊原光治の唄は言わずもがなであるが、今回もう一人の菊央雄司の声に惚れ惚れした。そしてまた暗転。更に屏風は銀に代わる。いよいよ最後の山村若による地唄舞≪葵の上≫である。
≪葵の上≫は謡曲「葵上」から取られた「本行物」で、流儀の奥許しの曲として大切に舞われている。生き霊となった「六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)」の恋を比翼の蝶に見立てての二枚扇の舞から、衰えた我が身への嘆き、苦しみ。「生きてこの世にましまさば/水暗き沢辺の蛍の影よりも光る君とぞ契らん/…/夢にだに返らぬものは我が契り/…/いう声ばかりは松吹く風/さめてはかなく成りにけり」
今回、この舞台を見て、「山村若は芸術家である。」という感慨を深くした。それはこれまで見た国立文楽劇場や南座などの舞台とはおよそかけ離れた、「音楽堂」での公演であったからかもしれない。
現代において伝統芸能を考える時、それらが発生した時代とのあまりにも大きな違いを感じざるを得ない。昔は貴族なり武士なりの有力な庇護者、後援者の存在があった。しかしそういう存在を、今の時代は或る意味で否定している。芸術家は独自に、全く違った方法でその存続を図らなければならない。私はこれまでそういう意味で伝統芸能の存続に対して危機的な危惧を覚えていた。
しかし「芸術家・山村若」の存在はそうした危惧の念を払拭する一つの希望を抱かせる。彼はおそらく芝居小屋や、劇場が無くなったとしても、舞い続けるだろう。舞台が音楽堂であった今回は、金や銀や鳥の子屏風を設えることによって…。それがたとえば海辺であろうと野原であろうと、彼はさらに舞うための舞台を設えるであろう。もっと過酷な砂漠や荒野であろうとも…。
あの快活で磊落な彼のどこにそのような力が潜んでいるのだろうか。幼い時から扇を玩具代わりに用いて遊んでいたという生い立ち故なのか。それとも誰にも見せたことがない芸術家の心の闇を、彼もまた抱いているからなのか。(敬称略)
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☆〔五大ごだい〕地・水・火・風・空の五つをいう。一切の物質に偏在して、それを構成するもととみて大という。
☆〔六大ろくだい〕仏教用語で、万物を構成する六つの要素。地・水・火・風・空・識。六界。密教では法身大日如来の象徴とする。
☆〔識しき〕仏教用語で、対象を識別する心のはたらき。感覚器官を媒介として対象を認識する。六識・八識などに分ける。
☆〔法身ほっしん〕仏教用語で、永遠なる宇宙の理法そのものとしてとらえられた仏のあり方。
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