五十の手習いで始めた目下修行中の上方舞には「本行物」と呼ばれる舞があって、その所作は「能」から取られたものであると言う。『山姥』もその一つで、これまで何度か上方舞の舞台では見ていて、今年初めには山村流宗家、山村若による公演が静岡であり、深く感銘を受けていたところだった。中所宣夫が『山姥』を演じることは昨年から聞いていたので、ちょうど二つを見比べることが出来るまたとない機会であると楽しみにしていた。 4月28日(土)、前日の強い雨が嘘のように晴れ初夏のような日差しの中、浮き立つ心を抑えて千駄ヶ谷の国立能楽堂へと向かった。「観世九皐会春季別会」として、能『西行櫻』、狂言『秀句傘』、能『山姥―白頭』が開かれる日であった。中森寛太が演ずる雅な櫻尽くしの夢幻能と、野村万作によるユーモア溢れる狂言を堪能した後に、待望の『山姥』がいよいよ始まることになった。
まず橋掛かりから百萬山姥と呼ばれている都の遊女(ツレ)が従者(ワキ・ワキツレ)を伴って現れる。善光寺詣での旅の途中であるという。道半ばで日暮れとなり、困っているところへ一人の老女(前シテ)が現れる。中所宣夫の老女はどこか頼りなげで弱々しく、老いを感じさせる立ち居振る舞いであった。揚げ幕が上がり、橋掛かりから舞台に辿り着くまでは、その表情は確かに能面のそれであったが、遊女や従者と語らううちに、何故か次第に老女そのものに変わっていった。 いつも不思議に思うことなのだが、彼が演ずるシテは、いつも能面が次第に変化し、人間の顔になってゆくのである。以前に能『松風』を見た時もそうであった。『松風』では亡くなった行平の烏帽子と狩衣を身に付けた時から、狂おしいまでの女の恋情を表現した。しかし今回は手足の動きも緩慢な、表情も乏しい老いた女の様である。老女は都で「百魔山姥」と呼ばれている遊女に向かって、「自分こそは本物の山姥であり、月の出の後に再び現れ、真の姿を現して舞って見せよう。」と告げて消えてゆく。
再び橋掛かりに現れた時には、その面は長く乱れた真っ白な髪に覆われ、老女の時の弱々しさは消え、山姥の姿で鹿背杖を持ち、まっすぐに舞台に歩いて行く。そして山めぐりの曲舞を舞い始める。「生まれも知らず宿もなく、雲水を頼りに足を入れない山はない。」「邪正一如と見るときは色即是空そのままに」…。 中所宣夫の『山姥』は、謡いつつ舞いながら、実に多くの表情を見せた。苦しい山めぐりの辛さ。自らの境遇へのあきらめと悲しみ。そしてこの世の理不尽さへの怒り。その姿を見ながら、私の心の中には幾つもの思いが去来していた。何よりもこの世の名も無き人々、虐げられた民、鬼や獣の名を付けられ、歴史の表舞台には決して現れることのない人々、そのような存在を、山姥は象徴している。そしてその存在そのものの哀しみと絶望をも、中所宣夫は表現したのである。
そしてそれは世阿弥の時代に留まらず、現代でもなお、形を変えて存在し続けている。人間存在そのものが、誰かの労苦の上に成り立たざるを得ないという「業」を背負っているのかもしれない。 伝統にしがみつくのではなく、世界あるいは社会に生きている人間が、どの時代にも等しく味わい、感じるであろうことを、伝統の中で表現してこそ、普遍の芸術として、さらに永続してゆくことが出来るのだということを、中所宣夫の「能」は語っているようであった。それは単に「能」を技術だけで表現しても成し得ないことであろう。彼自身が人間として「識」を働かせ、「能」を単に演じるだけでなく、自らを明け渡し、その人物を生きてこそ、このような表現が出来るのであろう。(了)(敬称略)