スポンサーサイト

  • 2016.05.18 Wednesday

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 0
    • -
    • -
    • -

    2012年05月30日のつぶやき

    • 2012.05.31 Thursday
    • 03:00
    16:22
    素敵な風景ですね。心が震えます。「夏への扉」なのに、なぜか「さらば夏の光よ」という詩句を思い出してしまいました。RT:@operahaus夏への扉。 http://t.co/q6Ofr2D0
    16:25
    @mocchan24 フォロー有難うございました。よろしくお願い致します。
    • 0
      • -
      • -
      • -

      2012年05月29日のつぶやき

      • 2012.05.30 Wednesday
      • 03:00
      00:03
      阪神淡路大震災の少し前に二重にかかった虹が出ました。そして震災前夜、大きな真っ赤な月が出ました。それ以来、虹と月の変化はとても気になります。どうぞお気をつけて下さいませ。@towarone
      00:41
      @kyo_marble @masaya178 @ihatov_cc 本当にそう思います。玉島で一緒だった小さなお子さんもすごく気に入ってましたよね。RT:オチョコがひとりいるだけで部屋がぱーっと明るくなりますよんw♪
      00:56
      @show3418 素晴らしいです。伺えなくて残念です。RT:北上市煤孫の慶昌寺での「花まつり能楽らいぶ」はいよいよ今週の日曜日です。 http://t.co/R68WGBCG
      01:01
      @kazesaeki ここ暫く情況を中止していて、この国は未だに戦後が終わっていないのだとつくづく思っております。どうすれば新たに再生の道を歩めるのかと…。
      01:12
      @ihatov_cc パチパチパチ★やっぱり絶対に出版して下さい。そのガイドブックを片手に持ちながら一人でも多くの人が賢治の足跡を辿りますように!RT:「三陸の賢治詩碑の現況(4)」(宮澤賢治の詩の世界) http://t.co/CHffraRW ひとまずこれで完結です。
      01:14
      @mcshinok @kazesaeki 変換間違えました。中止⇒注視
      03:07
      いつか@hamagak seijiさんが書いたガイドブックを片手に、「賢治が、ふと『もうこれで死んでもいい』と感じるほど、心を打たれた海岸地方の自然や人々に」会いに行きましょう。そして私達も「さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ」と、こころに誓いましょう。
      13:33
      @operahaus 地球を飛び抜けて宇宙を照らしていますね。RT:《ともしび》 http://t.co/IRUwOeUM
      • 0
        • -
        • -
        • -

        2012年05月28日のつぶやき

        • 2012.05.29 Tuesday
        • 03:00
        00:47
        暫く忙しかったのと気候が定まらないので、これまで何となくそのままにしていたが、この土、日で本格的な衣替えをした。その勢いでtwitterのページも衣替え。
        20:11
        @show3418 このことでいつも私は子供に叱られてばかりです。「主語がない。」「センテンスがなっていない。」「それでわかると思っているのか。」挙句に「よくそれでものを書いているな。」と。一世代下の日本語は私の知っている日本語と違うみたい。
        23:04
        @sasurau のどかで素敵な風景です。RT:ネコと湖畔でゲリ豪待ち。 http://t.co/fss6WSP8
        • 0
          • -
          • -
          • -

          2012年05月24日のつぶやき

          • 2012.05.25 Friday
          • 03:00
          04:28
          ブログを更新致しました。山村流舞扇会と地歌『石橋(石橋)』 http://t.co/ZJN4u0uQ
          04:34
          @waka6dai@maikokanzemizu先日の舞扇会の事を書きました。敬称略で申し訳ありません。山村流舞扇会と地歌『石橋(石橋)』 http://t.co/ZJN4u0uQ
          22:12
          芍薬の最後の二輪を、夕方切ってきて硝子の花瓶に挿し、?窓辺に置きました。 http://t.co/R55uflp4
          22:15
          22:17
          22:21
          芍薬3 ↓ ↑ 芍薬3 http://t.co/rIAJne9s
          • 0
            • -
            • -
            • -

            山村流舞扇会と地歌『石橋(しゃっきょう)』

            • 2012.05.24 Thursday
            • 04:06
            JUGEMテーマ:芸能


              5月20日(日)、大阪の国立文楽劇場で催された山村流舞扇会を見に行った。今年は流祖・友五郎が歌舞伎の振付師であったことから、歌舞伎舞踊として伝承されたたもの、歌舞伎舞踊から影響を受けた地歌、上方唄を中心に構成されている。第一部の終盤の長唄『大原女奴』は前半はおかめの面をつけ黒木売りの独特な姿で滑稽さを表現し、後半は衣装を引き抜き、威勢のいい国入り奴となって、奔放な踊りを披露する難しいものだが、宗家の長男である山村侑がこれまで稀であった本衣装付きで見事に舞い終えた。昨年よりも幾周りも大きくなって、悠然たる舞で将来が楽しみである。第一部の最後は山村光の『閨の扇』。三代目歌右衛門が演じた七変化所作事『遅桜手爾葉七字(おそざくらてにはのななもじ)』の一曲目「仮初めの傾城」の一部が地歌に残ったものという。目が醒めるような鮮やかな「本傾城」の衣裳と、いつもながらの山村光の溜息が出るような美しい舞を堪能した。
             第二部では若徳の長唄『島の千歳』の長袴の捌きと清々しさが印象に残っている。また若峯董の長唄『松の緑』の確かな演技が見事だった。圧巻は六世宗家・山村若の地歌『石橋』である。「今回の振付は復元ではなく、現代に於いての新しい作品として」、山村若自身が振り付けたという。地歌『石橋』は後の『変化物』に通じる歌舞伎の演出の一つ「怨霊事」の遺風を留める作品だと言われている。前半は着流しで傾城の舞を、後半は「肩獅子を付け大口を穿いて能の『石橋』に近づけている。
             それにしても山村若の扇使いはいつ見ても鮮やかである。この一瞬の演技の裏にはどれほどの時と研鑽が潜んでいることだろうか。しかもそれを微塵も見せずに。以前に「自分の演技は〈技術〉だけだ。」と言われたのを聞いたことがあるが、もしそうだとしたら、それは〈能〉でいう技術に通じるものがあるような気がする。目の前の〈技術〉に集中することによって、その演技で表現する対象の本質に迫るための〈空の器〉になるからこそ、あのような華麗な演技が生まれるのであろう。
             後半の〈獅子〉は怨霊と言うよりも、傾城そのものの可愛さだった。気高く美しい獅子の舞に暫しこの世の憂さを忘れた。

             最後にどうしても付け加えて置かなければならないことがある。それは山村若の演技だけでなく、その演技を支える舞台芸術の卓越性である。静岡の公演の時もそうだったが、今回の舞台でも実に見事に屏風を使っている。傾城の演技が終わって暗転となり、ややあって五枚の屏風の連なりが現れる。さらに照明の効果で後ろの二双は濃淡の墨色の重なりとなる。それは深山幽谷そのものなのだ。このひらめき、この発想は余人には代え難い才能である。
             その上宗家夫人の衣裳に対する抜群のセンスが加わる。頭に桜色の牡丹をつけた白獅子は、桜色の袴に黒地に金の牡丹唐草の打掛を纏っている。袖口と裾は緋色で裏打ちされている。細やかな行き届いた目線が舞台の隅々にまで届いている。そればかりではない。毎年のプログラムの詳細な説明と研究もまた、宗家夫人山村郁子の手によるものである。長年に亘る陰の労力と支えがあってこそ、あの華麗で見事な舞台は紡ぎ出されるのである。常に謙遜で熱心なお二人に敬意を表したいと思う。                 (敬称略)

            永遠の謎のなかで死者と共に生きる

            • 2012.05.08 Tuesday
            • 03:11
              昔、カトリックの学校の寄宿舎で過ごしていた頃があった。石造りの建物はひんやりしていて、真昼間でも薄暗かった。その頃、真夜中になると煉獄の霊魂が現れるという噂が囁かれていた。「この世からもう一度、元の世界に戻る時、耐えられないほど苦しいから、呼び出してはいけないんですって。」という言葉と共に。私はいつも亡くなった人たちと一緒に生きていたので、ことさらに呼び出す必要はないのだと、一人でこっそり思っていた。死者はどこへ行くのか、誰にもわからない。もちろんどんな宗教でも、死後の世界のことを教えているが、死なない限り、本当のことはわからない。それでも一つだけ確信していることがある。それは死者はその人を思っている限り、心のなかで生き続けているということである。だから私たちは死者を忘れてはいけない。十二月になると神戸の街にルミナリエの明かりが点る。今年はもう阪神淡路大震災から十七年の歳月が流れた。けれど私たちは今でもあの時と同じ気持を抱き続けている。昨年の三月十一日以来、この思いはこの国すべての人の思いとなった。
              
              私たちは生きるために生きなければならない。私たちは平静な心を保つ必要がある。正義だけでは砂のように掌からこぼれてゆくものが多くある。人にはその立場によって千差万別の考え方があり、生き方がある。対立している者同士は、ほとんどの場合、相手の立場を理解することが出来ない。かつて私は義母と共に暮らした歳月の方が、実母と共に暮らした日々よりも多かった経験を持っているが、その義母が亡くなってはじめて、一度も理解できなかった彼女の思いがわかるような気がした。生きている間はどうしても向かい合って立っている以外になかったのだが、どうやら私は彼女がこの世にいなくなってはじめて、相手方の立場に立って物事を考えるということが出来たのかもしれない。私たちはこの小さな列島に生きるささやかな存在である。大自然は時には偉大な癒しとなり恵みとなるが、その反面、小さな人間の力ではとても太刀打ちできないような脅威となる。その大自然と対峙する時、私たちが対立したところで何も生まれるものはない。私たちは分断する者となってはならない。過ちを認め、過ちを正し、より善き目的に向かって手を携えていかなければならない。ただ非難したり責めたりするだけの行為であってはならない。これまで何をしたかではなく、これから何をするかを考えるべきなのだ。

               死者と共に生きる、それを原点として考えると、今現在だけの座標軸ではなく、もっともっと先の、永遠へと続く道程が見えてくる。死者のみがこの世のすべてを俯瞰することが出来る。私たちはその辛く苦しい道程を耐え続けなければならない。そのことを考えると、今はすべての人の英知を一つに結集するべき時なのだ。私たちは己の為だけに生きているのではない。一人では出来ないことも、他者と共に生きることによって出来ることもあるだろう。どんなに歳を重ねようと、一人の人間の短い一生では、生きることも死ぬことも謎のままである。それでもなお、生きている限り生きなければならない。この短い、けれど輝きに満ちた一生において、死者を心に刻み、彼らと共に生き、彼らの視点で永遠に繋がる長い道程を見ることこそ、私たちの唯一の指標となるだろう。
            JUGEMテーマ:日記・一般

            中所宜夫の山姥―白頭

            • 2012.05.04 Friday
            • 13:57
              五十の手習いで始めた目下修行中の上方舞には「本行物」と呼ばれる舞があって、その所作は「能」から取られたものであると言う。『山姥』もその一つで、これまで何度か上方舞の舞台では見ていて、今年初めには山村流宗家、山村若による公演が静岡であり、深く感銘を受けていたところだった。中所宣夫が『山姥』を演じることは昨年から聞いていたので、ちょうど二つを見比べることが出来るまたとない機会であると楽しみにしていた。 4月28日(土)、前日の強い雨が嘘のように晴れ初夏のような日差しの中、浮き立つ心を抑えて千駄ヶ谷の国立能楽堂へと向かった。「観世九皐会春季別会」として、能『西行櫻』、狂言『秀句傘』、能『山姥―白頭』が開かれる日であった。中森寛太が演ずる雅な櫻尽くしの夢幻能と、野村万作によるユーモア溢れる狂言を堪能した後に、待望の『山姥』がいよいよ始まることになった。
             
             まず橋掛かりから百萬山姥と呼ばれている都の遊女(ツレ)が従者(ワキ・ワキツレ)を伴って現れる。善光寺詣での旅の途中であるという。道半ばで日暮れとなり、困っているところへ一人の老女(前シテ)が現れる。中所宣夫の老女はどこか頼りなげで弱々しく、老いを感じさせる立ち居振る舞いであった。揚げ幕が上がり、橋掛かりから舞台に辿り着くまでは、その表情は確かに能面のそれであったが、遊女や従者と語らううちに、何故か次第に老女そのものに変わっていった。 いつも不思議に思うことなのだが、彼が演ずるシテは、いつも能面が次第に変化し、人間の顔になってゆくのである。以前に能『松風』を見た時もそうであった。『松風』では亡くなった行平の烏帽子と狩衣を身に付けた時から、狂おしいまでの女の恋情を表現した。しかし今回は手足の動きも緩慢な、表情も乏しい老いた女の様である。老女は都で「百魔山姥」と呼ばれている遊女に向かって、「自分こそは本物の山姥であり、月の出の後に再び現れ、真の姿を現して舞って見せよう。」と告げて消えてゆく。
             
             再び橋掛かりに現れた時には、その面は長く乱れた真っ白な髪に覆われ、老女の時の弱々しさは消え、山姥の姿で鹿背杖を持ち、まっすぐに舞台に歩いて行く。そして山めぐりの曲舞を舞い始める。「生まれも知らず宿もなく、雲水を頼りに足を入れない山はない。」「邪正一如と見るときは色即是空そのままに」…。 中所宣夫の『山姥』は、謡いつつ舞いながら、実に多くの表情を見せた。苦しい山めぐりの辛さ。自らの境遇へのあきらめと悲しみ。そしてこの世の理不尽さへの怒り。その姿を見ながら、私の心の中には幾つもの思いが去来していた。何よりもこの世の名も無き人々、虐げられた民、鬼や獣の名を付けられ、歴史の表舞台には決して現れることのない人々、そのような存在を、山姥は象徴している。そしてその存在そのものの哀しみと絶望をも、中所宣夫は表現したのである。
             
             そしてそれは世阿弥の時代に留まらず、現代でもなお、形を変えて存在し続けている。人間存在そのものが、誰かの労苦の上に成り立たざるを得ないという「業」を背負っているのかもしれない。 伝統にしがみつくのではなく、世界あるいは社会に生きている人間が、どの時代にも等しく味わい、感じるであろうことを、伝統の中で表現してこそ、普遍の芸術として、さらに永続してゆくことが出来るのだということを、中所宣夫の「能」は語っているようであった。それは単に「能」を技術だけで表現しても成し得ないことであろう。彼自身が人間として「識」を働かせ、「能」を単に演じるだけでなく、自らを明け渡し、その人物を生きてこそ、このような表現が出来るのであろう。(了)(敬称略)

            PR

            calendar

            S M T W T F S
              12345
            6789101112
            13141516171819
            20212223242526
            2728293031  
            << May 2012 >>

            twitter

            月草舎からのお知らせ

            ★「惟」6号を発行致しました。購読ご希望の方は下記のメール宛、またはコメント欄に書き込んで下さい。今号より誌代は送料込みで¥700になります。 ☆「惟」は2号から5号まで少し在庫があります。ご購読をご希望の方はこのブログのコメントに記入して下さるか、メールmcshinok@gmail.comにご連絡下さい。誌代は送料込みで¥600です。ご希望の方には創刊号のコピーをお送り致します。 (メールでご連絡致します郵便口座あるいは住所に、振込または代金相当の切手でお願い致します。) ☆月草舎の本☆『風の芍薬(ピオニア)』☆1200 ☆『火の滴』紫野京子詩集 ¥2100 ☆『夢の周辺』紫野京子エッセイ集 ¥2100☆『一行一禮』小林重樹詩集 ¥1000 ☆『言葉の覆の下で』小林重樹詩集 ¥1470  * 委託販売 ☆『遠日点』田口義弘詩集 ☆『リルケ オルフォイスへのソネット』田口義弘 恐れ入りますが、お贈りする際には、いずれも送料を負担して頂きます。

            homepage更新のお知らせ

            ☆12月7日にhomepageのLiterary worksに「惟」創刊号掲載の詩3篇をアップしました。 ☆11月29日にhomepageを更新しました。(Linkの欄の星夜光Intergrated Starlightをクリックすれば開きます。)四行詩に新たに作品を加えました。興味のある方はご覧下さい。 (表紙のENTERから入って目次の紫野京子の頁に行き、更にLiterary worksに進んで下さい。)

            辞書

            ☆〔五大ごだい〕地・水・火・風・空の五つをいう。一切の物質に偏在して、それを構成するもととみて大という。 ☆〔六大ろくだい〕仏教用語で、万物を構成する六つの要素。地・水・火・風・空・識。六界。密教では法身大日如来の象徴とする。 ☆〔識しき〕仏教用語で、対象を識別する心のはたらき。感覚器官を媒介として対象を認識する。六識・八識などに分ける。 ☆〔法身ほっしん〕仏教用語で、永遠なる宇宙の理法そのものとしてとらえられた仏のあり方。

            selected entries

            categories

            archives

            recent comment

            recent trackback

            recommend

            links

            profile

            search this site.

            others

            mobile

            qrcode

            powered

            無料ブログ作成サービス JUGEM