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- 2016.05.18 Wednesday
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戦前の著名な歴史学者喜田(きだ)貞(さだ)吉(きち)は、我が国の古代宮都研究の先駆けとなった名著『帝都』のなかで、「桓武天皇の長岡遷都は、歴史上もつとも解すべからざる現象のひとつである。」と書いている。
この長岡京遷都の理由として、(一)水陸の便が優れていること、(二)奈良の旧勢力の影響から逃れるため、(三)南都の寺院勢力が政治に口を挟むことを嫌ったため、(四)渡来人の協力を得るため、(五)天武系から天智系へと天意によって新たな王朝がスタートするため、(六)怨霊から逃れるため、などの諸説が唱えられてきた。確かにこれらの原因が複雑に絡み合って遷都へと当時の山部親王(桓武天皇)を突き動かしたに違いない。また、桓武天皇は父である光仁天皇から始まる時代を天智系の王朝と考え、天応元(七八一)年、即位後初めて大極殿に臨んで出した詔で次のように述べている。
「近江の大津の宮に御宇天皇(天智天皇)の初め賜へる法のまにまに受け賜はりて、仕へまつれと仰せ賜ひ授け賜ふ。」
これらの理由のほかに近年注目されているのは、桓武天皇が道教思想に基づいて天帝の住む天宮を地上に再現しようとしたという考え方である。(『日本の道教遺跡』ほか)
平城宮祉資料館にも多くの呪符木簡が展示されていたが、この他にも多くの大祓の祭具が出土品の中から発見されており、大祓の神事は道教の影響が大きいとされている。
長岡京の朱雀大路の中軸線の延長四百メートル東、内裏跡の中軸延長線の西二百メートルに交野山がある。道教思想によると南に朱宮というものがあり、そこは天界に通じているとされた。交野山が長岡京の南にあるのは偶然ではなく、この山を聖なる山として、中国古代の都をモデルとし、道教思想に基づく天界の都をイメージして長岡京を造営したものと思われる。
また長岡京遷都の日は延暦三(七八四)年十一月十一日。皇后も中宮も伴わず強行された。『続日本紀』には「天皇移幸長岡宮」としか書かれていない。これらの研究書には「甲子朔旦冬至」を意識して定められたものと指摘されている。つまり「甲子」は「革令」の年であり、「朔旦冬至」(十一月十一日が冬至となる)は十九年に一度巡り来る瑞祥の日であり、「甲子朔旦冬至」となると四六一七年に一回しか巡って来ないのだという。しかも山部親王(桓武天皇)は生存中の光仁天皇から天応元(七八一)年に皇位を受け継いでいる。辛酉革命といわれる年であり、この年には天帝が新たに有徳者を選んで天子につける年と言われている。
このように考えると長岡京に新たな寺院を建設しなかったことも、旧勢力を忌避したことよりも、もっと宗教的な意味を持つのかもしれない。大極殿を取り巻く回廊に囲まれた大極殿院の前に朝堂院という建物があるが、平城宮や平安宮では十二の朝堂があったことが分かっているが、長岡京の場合は八堂院なのだという。道教思想では八という数字が大事にされるのだ。
この他にも近年さまざまな著書で、当時の道教について述べられているが、とりあえずはこの辺で筆を置く。只一つ明記しなければならないことは、この時代には儒教や仏教と同じくらいに深く、道教もまた広く流布されていたということである。
十月半ば、京都へ行く途中に長岡宮跡に立ち寄った。阪急電鉄で大阪梅田から高槻を過ぎ、京都河原町までの路線の途中に、西向日という各駅停車しか停まらない駅がある。改札口を出るとすぐ前に西向日商店街という文字が見える。商店街と言っても店の数は五、六軒位だろうか。その道をほんの少し北へ歩くと、道の左側に長岡宮朝堂院跡という看板が建っていて、当時の建物の所在地を示す図面も書かれている。現在ではかなり発掘調査が進められ、高槻市の教育委員会によって、少しずつ整備されつつある。
そこからさらに北へ歩いて行くと、大極殿という名の交差点に出る。その右手前方に緑の茂った地域があり、まず閤(こう)門(もん)跡(大極殿の入口)があり、道を隔てて大極殿跡と小安殿(後殿)跡があり、現在は史跡公園として整備され、「大極殿公園」と呼ばれている。入口に宝憧(ほうどう)跡があり、これは天皇の即位式と元旦にのみ立てられる特別な装飾具であるという。たった十年で廃都となったことを思えば、一年に一回、元旦にのみ用いられたことになる。
現在の地名は向日市鶏冠井町となっている。桓武天皇が都を移した十一月十一日に、毎年「大極殿祭」が大極殿遺蹟保存協賛会によって執り行われている。
若年の頃に既に仏道を志していた真魚にとって、叔父阿刀大足に勧められて大学寮に入学したものの、そこで学ぶことは何一つとして心に響くものはなかった。むしろ元興寺や大安寺を訪れ、多くの高僧と出会った時こそ、水を得た魚のように彼は生き生きと輝く眼で、ほんの少しのことさえも聞き漏らすまいと熱心に学び、全身の血を滾らせていたことだろう。それゆえになお、大学寮での学問は日に日に耐え難くなってきたのであろう。当時の政治も学問の世界もほとんどすべて唐に倣って儒教を中心としたものだった。
それに反し、当時の仏教は、現代のような葬儀を執り行うための宗教ではなかった。儒教がいわば、この世の生き方の術を身につけるのが目的だとすれば、仏教は生とは何かを考え、その生において、いかに生きるべきかを考えることが目的だったと言える。特に興福寺・薬師寺を大本山とする法相宗、元興寺の三論宗は、いずれも識のほかにはすべての事物的存在を否定する「唯識」に依拠していた。
唐突にも思える平城京から長岡京への遷都にあたって、当時の民の労苦や疲弊を、真魚はどのような思いで眺めていたのだろうか。何の疑問もなくただ日々の暮らしを易々として過ごすには、彼は余りにも純粋であり、深く考えざるを得ない性癖を持っていたと言える。そしてある日突然、彼は大学寮からも、平城(なら)の都からも姿を消すのである。
もし現代に真魚が生きていたなら、もっと複雑な多種多様な価値観をいかに解釈し、取捨選択し、選び取って行ったのだろうか。そのことを思うと興味が尽きないのであるが、この時代、彼が呈示されたのは先に述べた三者であった。もっと深く熟考し、学ぶために、彼は大学寮を放棄し、どこへともなく旅立つのである。そして最終的に彼がとった手段は、この三者を比較しながら、自らの思想をまとめ、披歴することであった。しかし初めての著書『聾瞽指帰』を著わすまで、未だ四年余りの歳月を待たねばならなかった。 (続く)
真魚が讃岐から叔父に伴われて入京した都が、長岡京だったとしても、大学寮が未だに平城京にあったと考えられる以上、住まいを平城京の近くに定めたものと思われるので、旧都に移ってそんなに日が経たないうちに、真魚もまた平城宮を見に行ったことだろう。荒れ放題のかつての都の夢のあとを見て、少年の心はどのように傷んだことか。 その一方で東大寺や興福寺・春日大社の壮大さを見て、言葉には言い表わし得ない矛盾もまた感じたであろう。しかもその東大寺の建築に携わったのは一族の長である佐伯今毛人であった。 思えば真魚(空海)は、人生のスタートにおいて既に、幾重にも複雑に織り成された社会や政治の様相を、目の当りにしなければならなかったのだ。とはいえ今はただ大学寮の受験のために励まなければならない時期だった。それらが柔らかな感じ易い少年の心に深く影響を与えたとしても、とりあえず今は周囲の状況を見るいとまもなく、ただ一途に勉学に邁進するのみであった。
三年間の勉学期間の後、真魚は当時の大学寮明経科へ進学する。『日本紀略』には次のように書かれている。
延暦十年辛未
是歳、大師、大學明經ノ科試ニ及第シ、大學博士岡田牛養ニ春秋左氏傳等ヲ、直講味酒浄成ニ五經等ヲ學ブ、
平城京のどこに大學寮があったのか、未だに明らかではない。これまでも大極殿をはじめ、発掘・復元作業が進んでいるので、近い将来にその場所を確定できることを期待している。 平安京の大學寮址は確定されていて、朱雀大路の東、二条大路の南、三条坊門小路の北に当たる四町の区域を占めていたという。たとえばこれを平城京の地図上に置いてみれば、朱雀門を出てすぐ、国道一号線から現在の奈良のメインストリートである大宮通に至るまでのどこか、あるいは二条大路南一の交差点から三条大路二の交差点の間辺りなのか、様々に想像は膨らんでゆく。ともかくもここがこれからの真魚の日々の生活の中心となるのであった。 しかし大学寮での真魚の生活がどのようなものであったか、これ以上の記載は当時の書物にはない。
空海の著書『三教指帰』の中には次のように書かれている。
余年志學。就外氏阿二千石文學舅。伏膺鑚仰。二九遊聴槐市。拉雪螢於猶 怠。怒縄錐之不勤。爰有一沙門。呈余虛空蔵聞持法。其経説。若人依法誦此 真言一百万遍。卽得一切教法文義暗記於焉信大聖之誠言。
(私は十五歳になった年、母方の伯父である阿刀大足、禄は二千石で親王の侍講であった人につき従って、学問にはげみ研鑽を重ねた。十八歳で大学に遊学し、雪の明りや蛍の光で書物を読んだ古人の努力を思い、まだ怠っている自分を鞭打ち、首に縄を掛け、股に錐を刺して眠りを防いだ人ほどに勤めない自分をはげました。ここにひとりの修行僧がいて、私に「虚空蔵求聞持の法」を教えてくれた。この法を説いた経典によれば、「もし人が、この経典が教えるとおりに虚空蔵菩薩の真言を百万回となえたならば、ただちにすべての経典の文句を暗記し、意味内容を理解することができる」という。)
確かにここには極限まで精励刻苦した、大学寮進学前後の真魚の姿が書かれている。しかし大学寮で学んだ内容については一言も書かれていない。そればかりか唐突に「虚空蔵求聞持法」という言葉が現れる。
また『御遺告』には次のように書かれている。
然後及于生年十五入京。初逢石渕贈僧正大師受大虚空蔵等幷能満虚空 蔵 法呂入心念持。後經遊大學従直講味酒浄成讀毛詩左傳尚書。復問左氏春秋■ 岡田博士。博覧經史専好佛經。恒思我之所習上古俗教眼前都無利弼。矧一期 之後此風已止。不如仰真福田。
(このようにして、十五歳になったときに都にのぼり、そこではじめて岩淵の僧正の位を贈られた勤操という偉大な師にお目にかかり、大虚空蔵などの法や能満虚空蔵の究極の法を授かり、一心に真言の念誦、受持につとめた。 のちに大学に入って、直講(博士を補佐し経書を講義する者)の味酒浄成について『詩経』や『春秋左氏伝』『尚書』を読み、『左氏春秋』を岡田牛養という博士に学んだ。ひろく儒教の経書や史書を読んではみたが、おもに仏教の経典を好んだ。つねづね、自分がいま学んでいるところの古い昔からの世俗の教え、(儒教)は、目前のことについてはなんら役に立つところがないように思っていた。死後はそれによって影響されるところがないであろう。真の福田(福徳を生み出す田)である、仏を信仰するのが最高である、と。)
さらに『空海僧都伝』にも次のような記載がある。
年始めて十五にして、外舅二千石阿刀大足に随ひて、『論語』『孝経』及 び史伝等を受け、兼ねて文章を学びき。
入京の時、大学に遊び、直講味酒浄成に就いて、『毛詩』・『尚書を読み、『左氏春秋』を岡田博士に問ふ。
(十五歳になったときは、母方のおじ、阿刀大足について『論語』・『孝経』をはじめ、歴史や伝記など の手ほどきを受け、文章を学んだ。
上京して大学に入り、直講の味酒浄成について『毛詩』(『詩経』)と『尚書』(『書経』)とを読み、『左氏春秋』(『左氏春秋伝』)を岡田牛養博士に習った。
いずれも時を経た後の記述であり、空海自身が書いたものではない。しかし十分に真魚の当時の姿を映し出している。
忘れてはならない。この少年にはそもそも七歳の時に既に、衆生済度の願いをかけて断崖から身を投げたという伝説が残されているのである。
『御遺告』に書かれていることが事実だとすると、真魚は大学寮に入学する前に勤操に出会っていたことになる。もしかすると伯父の阿刀大足の思惑とは別に、都に上ることによって、仏道の良き師に巡り合えるかもしれないと、真魚は密かに考えていたのかもしれない。
当時の大學寮では、明経道(儒教)、算道(数学)、音道(中国語の発音)、書道、明法道(法学)、紀伝道(史学)、及び文章道が中心であった。それらはいずれも世間を渡るための、いわばこの世の学問であった。そこでは生死の問題は取り上げられなかった。仏道を志す少年にとっては、それらは生きていく術になったとしても、到底生きる目的にはなり得なかった。 真魚がもし佐伯院、あるいはその近くに住んでいたとすれば、元興寺は隣り合わせであり、大安寺もまた大学寮へ行く道の途中であった。当然のことながら早い時期にこれらの寺院を訪れたものと思われる。
元興寺は蘇我馬子によって建立された法興寺(飛鳥寺)が、養老二(七一八)年に新京に移されたものである。法興寺(飛鳥寺)は三論・法相の両学派が最初に伝えられたところであり、都が移ったのちも、依然として東大寺に次ぐ位置を与えられていた。天平勝宝元(七四九)年に墾田の地限が定められた時には、東大寺の四千町歩に対し、元興寺は二千町歩、大安・薬師・興福寺は一千町歩であったという。 現在は寺の面影を残すのは奈良町の中にひっそりと佇む元興寺極楽坊のみであり、小塔院は僅かな境内を残すのみである。 元興寺極楽坊の残されている極楽堂と禅室の屋根の行基葺瓦には、飛鳥時代創建の法興寺の瓦が未だに混じっていると言われている。
唐に渡って玄奘三蔵について学んだ道昭が六六〇年帰朝し、元興寺に住み禅を講じ、法相宗を広げた。道昭は各地を行脚し、井戸を掘り、橋を架け、舟着き場を作って社会事業を指導したことでも知られている。その後を継ぐのがやはり唐で学んだ智通、智達であり、さらに興福寺を中心に普及した智鳳がいる。この智鳳に学んだのが義淵である。義淵は大和国高市郡の出身で、阿刀氏であるという。その門下に行基、良弁や神叡がいる。 一方、大安寺は六三九年、聖徳太子の委託を受けた形で田村皇子が舒明天皇となったのち、熊凝精舎を百済川の畔に移して百済大寺とした。その後、六七三年天武天皇の命により香具山の南に移し、高市大寺となり、さらに大官大寺と改称された。平城京遷都に伴い、移築されて、七四五年、大安寺と再び改称された。この移建は長安の西明寺に留学した道慈によって指導され、西明寺を模して造られた。大安寺式と呼ばれる壮大な伽藍であったという。国家鎮護の寺として、また東大寺開眼供養を司った、インド僧菩提僊那、唐の僧道■やベトナム僧仏哲なども止宿し、国際的な色調をも帯びていた。
初秋のある日、この大安寺を訪れた。現在の門は、昔の南大門があった場所に建てられている。門を入ると中門跡の石碑が建っている。往時を偲ぶものは今はもう何も残っていない。近来、発掘調査が進み、現在の境内の南には東塔と西塔の跡が残っており、いずれも60メートルを越える巨大な塔であったと推測されている。平城京の朱雀門を出て朱雀大路を南にまっすぐ下がってくると、この大寺の威容が目に映ったことであろう。大学寮を出て佐伯院へと向かう道の途中、この塔を仰ぎ見ながら歩く真魚の姿を想像すると、彼の仏教への憧憬のようなものも伝わってくるような気がする。
道慈は三論に精通し、「金光明最勝王経」「虚空蔵求聞持法」をもたらし、養老三年には神叡とともに食封五十戸を賜っている。後に空海を出家させた剃髪の師と言われる勤操は十二歳で大安寺に入門し、二十三歳の頃、具足戒を受け、善議大徳に師事し三論の奥義を授けられたという。最澄もまた若年の頃、この大安寺で修行したという。空海は八二九年、この大安寺の別当に就任している。 三論とは龍樹の「中論」、「十二門論」、と龍樹の弟子、提婆の「百論」を指し、この三論を拠り所として大乗の空思想の徹底を説くのが三論宗である。一方、法相宗は、インド唯識思想の代表的経典「解深密経」、「成唯識論」などを典拠とし、一切存在は識(心)の作り出した仮の存在で、阿頼耶識以外に何物も実在しないと説く。ここでは敢えて辞書的な説明のみに留めておく。 (続く)