10月12日(土)、国立文楽劇場で開催された「東西名流舞踊鑑賞会」を見に行った。1部、2部に分かれているが、第1部だけの鑑賞である。幕開けは山村流の山村若峯菫の地歌「越後獅子」。若峯菫の舞はどんな時でも安心して拝見できる。余程「地歌」の基本を究めておられるのであろうといつも感心する。観客である私はこれですっかり地歌モードになってしまった。次の楳茂都梅咲の「黒髪」が長唄だったので、ちょっと裏切られた気がしてしまった。次に吉村輝章の長唄「木賊刈」が続き、いよいよお目当ての山村若の地歌「石橋」である。
2012年5月20日に、私はこの劇場で行われた山村流舞扇会で、今回の2部構成による「石橋」が初演されたのを拝見している。これまではほとんどの場合、後段の謡曲の部分だけを用いて、格調高い「祝儀物」として舞われてきたが、この初演と同じように、今回も前段の苦界に生きた傾城(遊女)が成仏できずに、その霊がさまよっているという設定から始まっている。(初演の折の感想をこのブログ内でも書いているので、興味のある方はもう一度ご覧頂きたい。)しかし、今回の前段はその時とはかなり変わっていて、ほとんどはじめて拝見するような印象である。山村若の独壇場である扇使いは前回よりも格段に上がり、より高度になっている。「桜」ではなく「牡丹」が散るように、扇もまた「ひらひら」ではなく「はらり」と散るのである。
幕が開くと下手に黒地に金の牡丹唐草の打掛が掛けられている。この打掛は確かに見覚えがある。舞台前方には一対の朱塗りの蝋燭が燃えている。舞台中央でのお辞儀から舞が始まる。衣裳はシンプルで、かえってそれが心に残る。アイヴォリイの無地の着流しで、裾と襟元には濃紺を重ねている。帯は繻子の黒、獅子の刺繍が魅力的だ。ほとんどモノトーンの背景に、前に置かれた朱塗りの燭台が鮮やかだ。
前半は難しい二枚扇を軽やかに操って、次から次へと手事を見せる。それでいて不自然さはなく、その流麗さにうっとりと見とれるばかりだ。今回特に思ったのは、流れるところはさらさらと水のごとくに留まることを知らず、それでいて決めるところはきっぱりと、その鮮やかさに驚嘆した。いつも思うことだが、このこともなげに技を繰り出す芸の裏には、どんなにか日々の鍛練があることか。
やがて扇を扇獅子に持ち替え、胡蝶と戯れる。モノトーンの中で、この扇獅子に付いてる牡丹の花の薄桃色と、胡蝶の彩色が生き生きと空間を舞う。「影向の時節も今幾ほどによも過ぎじ」の歌詞で舞台を退場。暗くなった舞台に現れるのは青い光に包まれた深山幽谷。これも以前と同じように屏風の重なりで本当に深い山を現出させる。今回は特に月光に照らされ、銀色に光る山並みと千尋の谷を想起させられた。
山谷に降り立ったような気分になった頃に、舞台の前には二人の後見が登場し、燭台を持ち去る。
ややあって能と同じ登場楽が入り、次に再び二人の後見が登場。燭台を再び置きに来るが、今回は先程の朱塗りの燭台ではなく黒塗りのもので、台の部分に光が当たり、あたかも星が光っているように見える。
程なく舞台は突然明るくなり、月光に照らされた山々は再び鳥の子屏風の連なりに戻る。
花道から先程の黒い打掛を羽織り、生成りの大口袴をつけ、白頭に扇獅子を被った山村若が登場。この扇獅子の牡丹は白、打掛の袖口には朱が利いていて、前段の舞台とは対照的である。いつもながらこの舞台の隅々まで目配りされた色彩感には感じ入る。獅子はいったん中ほどまで来て、一度花道の奥に下がり、再び登場して一気に舞台中央まで駆けてゆく。観客は前段とは打って変わった勇壮な躍動感溢れる舞台に酔いしれる。二つの異なった印象の舞台を二つながらに見ることが出来る、とても贅沢なひとときであった。
最後に蛇足ながら一つ付け加えておきたい。前段、後段共に満足し堪能したのだが、前段の印象があまりにも強すぎたせいか、以前に見た時よりも、今回の獅子はインパクトが弱いように感じた。そのため、前段の終わりの印象が最後まで残り、獅子の印象が強く残らない。どちらも同じバランスで演じるのか、あるいはどちらかに重きを置くのか、全曲を通してなおかつ最後に強い余韻を残すためには、如何にすべきかという課題が、未だに残されているように思う。(敬称略)